10秒でたのしいが消費される時代に、20年以上も切ないジャックスカードのCM「パンとカメラ」が好きすぎるから人生を6分だけくれ。

切ないは、時を越える。

https://note.com/noyagi/n/n3f73535c5c89

 

コンテンツの消費は年々速くなっていく。SNSを開けばすぐに10秒でたのしい。一瞬で目を惹くエネルギッシュな画がずらり並んでは、文字通り高速で流れ過ぎ去っていく。たのしい、エロい、ハイカロリー。炭水化物山盛りのようなコンテンツは濃厚で刺激的だ。ひと口限り、味見で満足の一過性コンテンツにどっぷり浸かって無作為につまみ食い。ただスマホのスクロールに身を任せて流れていくのは確かにたのしい。たのしいのだが、でもたのしいだけだ。先月、いや一週間前のトレンドを誰も覚えていない。観たもののほとんどは記憶に残らない。消化が速いぶん、血肉にならない。カロリーはどんどん燃やされて、目先の時間を通り過ぎていくだけだ。「たのしい」は快楽だが、人間はきっとそれだけでは満足できない。恐らく同じ思いを抱えるひとは多いのではないだろうか。

 

だから。だからこそ。6分だけでいい。あなたの人生を6分くれ。

 

10秒でたのしい今の時代に、6分は長いかもしれない。でも、それでも。たのしいだけでは満足できないひとに、きっと届くはずだ。切なさのトップクリエイション。ジャックスカードの企業CMシリーズ「パンとカメラ」を観てほしい。

 

JACCSカード 企業CM 「パンとカメラ」'01-'03

 

ありがとう。観てくれてうれしい。

 

今、あなたのこころは感情の総量が増えて、堰き止められないぶんが溢れて、感動している。最高だ。わたしもそうである。特定のコンテンツの響き方、感情、受け取りは人それぞれだけど、きっとあなたとわたしのこころには重なる部分がある。同じように揺れ動いたこころの「なにか」がある。たぶんそれは、切なさと書かれるような感情のたぐいだ。この6分はエモいが生まれる前から衰退するまで、20年以上も切ないを生み出し、響かせ続けてきた傑作なのだ。本当に、観てくれてうれしい。

 

良質なコンテンツは時を越える。X(旧ツイッター)には定期的にそんなコンテンツが発掘されては流れてくる。「パンとカメラ」もそのひとつだ。わたしがはじめてこの企業CMをみたのも、ある日どこかから流れてきたのがきっかけだった。それから10年以上ずっと切ないままだ。切ないを生み出すコンテンツの耐久性は高い。じっくりと、ゆっくりと揺れ動いたこころの軌跡。その記憶は化石のように静かに深く沈殿し、血となり肉となりこころの背骨となり、なにかのきっかけに蘇ってくる。日常のある時、ある瞬間にふいに呼び起こされ、少しずつ、本当に少しずつ咀嚼されていく。そんな大きい感動がこの6分には詰まっている。すごい。本物のコンテンツとは人生の尺度の拡張であり感情の深度。目盛りを大きくし、目先のタイパやコスパなんて吹き飛ばすのだ。時を超越した素晴らしさがある。ああ……、もう一度観ておこう。

 

JACCSカード 企業CM 「パンとカメラ」'01-'03

 

切ない。でも、なぜこんなにもこころが動くのだろう。胸が苦しくなるのだろう。何度も観てしまうのだろう。

 

切ない。でも、なんでこんなに好きなんだろう。

 

はじめて観てから10年。10年か。もう10年なのか、まだ10年なのか。ようやく書く。書きたい。10秒でたのしいを消費できる時代の今だからこそ、書こう。今もなお色褪せない「パンとカメラ」の魅力と、最大の謎である6話の真相を紐解いていく。

 

※本稿中の画像はすべてJACCSカード 企業CM 「パンとカメラ」'01-'03より引用した

 

 

 

|パンとカメラとは?

 

「パンとカメラ」は2001年から2003年に渡り放送されたジャックスカードの企業CMシリーズだ。放送から20年以上経った今もファンが多い、名作中の名作CMである。『自分の夢に、嘘はつけない。』をコピーに、全6話構成。ふたりの男女の出会いから別れを描いており、各話に以下のタイトルがついている。

 

「パンとカメラ」第一話 出会い篇第二話 再会(雪)篇第三話 恋の芽生え篇第四話 喧嘩篇第五話 旅立ち篇第六話 最終話

 

既にここまでもう2回(計12分)は視聴済みの読者諸氏には自明のことだが、主要な登場人物は由香と和也のふたりである。ただし、劇中で名前の漢字表記は出て来ず、和也は名字のフジワラくんとしか呼ばれない。各話の最後には必ず、ふたりでキャッチコピーの『自分の夢に、嘘はつけない。』と『ジャックスカード』のセリフを言って終わる。

 

由佳を演じているのは伊藤歩。和也は村上淳。監督は村本大志。ハスキーな声と天真爛漫な魅力をいっぱいに振りまきながら、不安な影をしっかりと視線に残すチャーミングな由香と、煮えきらない表情の中にしっかりと芯を光らせる機微で伝えてくる和也。物語との距離も保ちつつしっかりと訴求してくるジャックスカード。双方どちらの角度からみても刺さってくる名作企業CMだ。

 

そして、全編で使われている山下達郎の「蒼氓」が作品世界における静けさと力強さを掻き立て、情感をマックスまで高めている。もはや聴くだけでふたりを思い、泣ける。同曲はゴスペルにインスパイアされた山下達郎の代表曲。コーラスには桑田佳祐原由子夫妻が参加しており、本作以外も多数の映像・エンタメ作品で使われている名曲だ。

 

2020年にはじめてミュージックビデオになっているので、こちらもぜひ観てほしい。

 

山下達郎 「蒼氓(そうぼう)」・「踊ろよ、フィッシュ」Music Video Warner Music Japan

 

 

 

|このCMの時代背景

 

このCMシリーズが放映された2001年から2003年の世界はどんな空気だったのだろう。まずはそこから考察を進めよう。2001年以降の日本は、インターネットの普及がどんどん進みデジタル機器の利用が一般化していった時代だ。2ピーガガガガという音とともにダイヤルアップ接続していたインターネット*が、より高速で時間の制限のないブロードバンド**に移行。ネットの普及で世界がつながり、個人の知識もコミュニケーションももっと広く、もっと深く、拡大していく。携帯電話は第三世代携帯「FOMA」が登場し、3G回線が広まっていった。パソコンがなくても、iモードやプラットフォームを介してのコミュニケーションができ、ゲームでは単純にたのしむだけでなった。ユーザー同士のコミュニケーションが付随するようになり、つながりを介した新しいエンターテイメントがどんどん進化していく。既存のコンテンツでも、MPプレーヤーやデジタルカメラ登場により、デジタル化が進んでいった。今、スマホに集約されたデジタルコンテンツはちょうどこの時期からはじまったのだ。より速く、近く、便利に、どんどん手に入れやすくなり、今日まで急速に世界がつながってきている。

 

*ダイヤルアップ接続電話回線を用いたインターネット接続方法。1990年代に電話回線さえあれば利用できるインターネット回線として普及した。パソコンからピーガガガガというダイヤル音がした後にネットにつながる。多くは時間課金制で超過するとめちゃくちゃお金がかかるため、家族や仕事場で接続開始時間と終わり時間をノートにメモして共有するなど涙ぐましい努力のうえで制限された範囲内のインターネットをたのしんでいた。なのでネットをするときはかなり気合いを入れてつなぐ。**ブロードバンド高速・大容量の通信技術の総称、ADSLや光・IP通信網サービス、CATV等の高速・大容量の通信により定額でいつでもインターネットにつなげるようになった。スマホ定額制でいつでもどこでもネットにつながっていることをあたり前に享受できる今では想像しにくいが、当時は制限のないネットは文字通り世界を広げ、新しいコミュニケーションが生まれていった。

 

政治の世界では2001年に小泉内閣が組閣。痛みをともなう改革がうたわれ、既存権益の解体や戦いを構図に、歪みを正すような強いリーダー像が浸透した。IT企業やベンチャー企業など、新しい技術への憧憬も高まっていた。ワークライフバランスの黎明やワーキングホリデーも流行している。

 

そんな中、2001年にはアメリカで同時多発テロが発生。若者世代では、どんどんつながっていく世界とその歪みとの間に葛藤やギャップが生まれていく。翌2002年には、日韓ワールドカップが開催されるなど世界のつながりと拡張はより深くなり、グローバルへの志向も進んだ。

 

本CMシリーズが放映された3年は世界的にみても激動であり、閉じた世界からより広いコミュニケーションへと個人レベルでも大きな変化が訪れた。技術革新が大きなうねりを生んでいくなかで、もがき答えを求める若者といった背景を踏まえてぜひもう一度視聴いただきたい。一つひとつの表情や選択にきっと違った立体感が宿り、作品世界が深く見えてくるはずだ。

 

JACCSカード 企業CM 「パンとカメラ」'01-'03

 

 

 

|パンとカメラの構成

 

全6話のパンとカメラは、その6分で余す所なく物語を伝えている。無駄のない素晴らしい構成だ。物語の構造をわかりやすくするために、まずは一般的な起承転結にあてはめてみる。各話ごとに映像から読み取れる事実を軸に書き出していこう。

 

……長い。読めなーい!

 

でも大丈夫。

 

そんな銀行に行けないくらい多忙な吉高さんのために、読み飛ばし向け一文サマリを各話の最後に付記しておいた。さっくりスクロールしても問題ない。安心してほしい。でも由里子、銀行には行ってくれ。

 

 

 

第一話 出会い篇

 

・北海道の田舎道・道の脇の草むらで由佳がパンを食べている・和也は車がエンストして立往生している・由佳がヒッチハイクに失敗して悪態・和也は空の写真を撮る・由佳が再度ヒッチハイク・和也の車のサイドミラーにトラックが映る・そのトラクターの荷台に寝転んでいる由佳・和也がヒッチハイクするも失敗・通り過ぎていく荷台から由佳が和也に『お腹空いてる?食べる?』と声を掛ける・由佳がリュックに直パンスタイルのフランスパンを抜き出して投げる・和也がパンをキャッチ・『バイバーイ。がんばってね』・和也が由佳の写真を撮る・東京に戻った和也が由佳の写真を現像する・洗濯バサミに吊るされたジャックスカードとネクタイ・外で雨やどりする由佳・『自分の夢に、嘘はつけない。』・『ジャックスカード』

 

一文サマリ:

 

旅先の北海道で由佳と和也が出会う。

 

 

第二話 再会(雪)篇

 

・冬の東京・パン屋で『ありがとうございます』とパンを売る由佳・オフィスで『すみませんでした』と頭を下げるスーツ姿の和也・パンをこねる由佳・線路脇で缶コーヒーとパンを食べる和也・真剣な表情でパンをつくる由佳・帰路、バイクに給油する和也・『カードで』・和也がパン屋に入ってくる・『いらっしゃいませ。もう終わりなんですけど』と振り返る由佳・再会・『食べる?』とパンを放り投げる由佳・公園で由佳が夢を語る・すべり台に登る由佳・『焼き立てのパンを、たくさんの人に食べてほしいと思ったの』・見上げる和也・降り出す雪・すべり台に登る和也・『自分の夢に、嘘はつけない。』・『ジャックスカード』一文サマリ:

 

東京で偶然、由佳と和也が再会する。

 

 

 

第三話 恋の芽生え篇

 

・和也の部屋・ベットに仰向けの和也・写真を放り投げる・パラパラと落ちてくる写真を見つめる和也・パン屋でパンをこねる由佳・フランス語の練習をする由佳・本屋にいるふたり・『もう少ししたらね、パリに行くんだ』・驚く和也・由佳の本代を払おうとする和也・『いいって』と断り、6回払いで払う由佳・雨の中走るふたり・前に由佳が雨宿りしていた屋根に駆け込むふたり・濡れないよう由佳を抱き寄せる和也・『自分の夢に、嘘はつけない。』・棚にしまわれたままのカメラとフィルム・『ジャックスカード』一文サマリ:

 

由佳と和也の間に恋が芽生える。由佳が近くパリへ行くことを伝える。

 

 

 

第四話 喧嘩篇

 

・和也の部屋でふたりが食事をしている・カメラを持つ由佳・『フジワラくん、口ばっかりで何もしないじゃん』・怒って出ていく由佳・追いかけない和也・パン生地を抱えて思いにふける由佳・踏切をバックに帰路につく和也・カゴいっぱいのフィルムを抱えてレジに駆け込む由佳・『これ全部』とカードで支払う由佳・フィルムをひとつ手に取る由佳・和也の玄関のドアの前に置かれたダンボール・帰ってくる和也・部屋でダンボールを開ける和也・『Shoot! ゆかより』の手紙と箱いっぱいのフィルム・真剣な表情の和也・一心不乱にパンをこねる由佳・決意と少しの微笑みの和也の顔のアップ・パン屋の外で頬を軽く叩き悩ましい表情の由佳・『自分の夢に、嘘はつけない。』・『ジャックスカード』

 

一文サマリ:

 

ふたりがすれ違う。由佳が和也にダンボールいっぱいのフィルムを贈る。

 

 

 

第五話 旅立ち篇

 

・空っぽの部屋に立ち窓の外を見ている由佳・リュック直パンスタイルとスーツケース・和也の部屋・ベットに寝転びカメラをいじる和也・勢い起き上がり、部屋から出ていく和也・旅行代理店・『パリまで。帰りはオープンで』と航空券を買う由佳・カードで支払う・スーツケースを引きながら坂道を登っていく由佳・走ってくる和也・呼び止める和也・振り返る由佳・『胸はっていけよ!』・頷く由佳・頷き返す和也・直パンスタイルからフランスを抜く由佳・『いってきます!』・パンを投げる由佳・キャッチする和也・手を空へ突き出す由佳・パンを上げ返す和也・手を振り、振り向かずに歩いていく由佳・パンを所在無く振りながら見送る和也・『自分の夢に、嘘はつけない。』・『ジャックスカード』

 

一文サマリ:

 

由佳がパリへ旅立ち、ふたりは別れる。

 

 

第六話 最終話

 

・古い民家の庭・ハイビスカスの花をバックにカメラを覗き手で合図する和也・笑い声・老夫婦のモノクロの写真・おじいは無愛想、おばあは笑顔・縁側で撮影・笑い声・おじいさんにもたれかかり、はにかむおばあ・カブに乗り玉石垣の道を走る和也・前カゴにフランスパン・通りすがりに『こんちはー』と挨拶する和也・海を見下ろす風景にバイクを止め、島と夕陽を眺める和也・カメラを構える和也・シャッターを切ると『フジワラくん』の声・振り返る和也・笑顔で立つ由佳・再び景色に向き直り、景色のことを伝えようとする和也・再び振り返る和也・もういない由佳・しばらく辺りを見回す和也・『がんばってね。バイバイ』・手を振る由佳・何かを飲み込むような表情の和也・『自分の夢に、嘘はつけない。』・芝生の上に置かれたフライパンとカメラ・『ジャックスカード』・モノクロ写真・島と夕陽をバックに手を繋ぐ和也と由佳一文サマリ:

 

写真の道を歩き出した和也と、もういない由佳。

 

|起承転結で見るパンとカメラ

 

ふたりの出会いと再会を通して作品世界に導く「起」パートの第1話と2話。恋が盛り上がる「承」の第3話。ふたりの喧嘩からこの先の別れを想起させる「転」の第4話。そして、物語の結末である第5話と6話。

 

こう書き出してみると、短い時間でまったく無駄のない展開だ。美しくすらある。ひとつのシーン、ひとつのカット、それぞれが情報と情感を何層も併せ持ち、短い時間で伏線が何本も張られ、複層的に掛け合わさって作品世界を深めていく。一方でセリフはシンプル。キャラクタに沿ったシンプルで力強い言葉のチョイス。ハスキーぎみな由佳の声に惹き寄せられ、もどかしい和也の表情にいじらしくなる。口数少ない和也が絞り出した言葉のまっすぐさ……いいよね。このまま好きなところを挙げていくとキリがなく、きっと観たひと100人が100様以上に感想を持っているだろう。それだけ解釈も想像の余地も広く、深い6分なのだ。構造視点で観ると登場人物やセリフ以外のシーンも、より細部まで楽しめる。以上を踏まえて、もう一度おさらいしておこう。

 

JACCSカード 企業CM 「パンとカメラ」'01-'03

 

そして、ここからは「パンとカメラ」を深く理解するために、作品世界における対比という切り口を軸に作品を紐解いていく。

 

|対比から紐解く各話の見どころ

 

作品には必ず対比がある。人間は比べることで、はじめてその双方の理解を深めることができるからだ。近すぎるものは同じに見えてしまうが、距離があるほどわかりやすくなる。さらに、作品世界における対比構造はキャラクタや世界をより明確にするだけではない。対比されたものが近づくとき、または遠ざかるとき、そこには必ず意思がある。それは、登場人物の意思かもしれないし、制作者の意思かもしれない。その何かを動かそうという力学。エネルギー。その働きかけが、観ている人の心を揺さぶり感情の振れ幅を増幅する。

 

たとえば、近くにいたいのに離れなくてはならない。遠くにいるのに、会いたい。同じ極の磁石を無理やり近づけたときのように、目には見えないチカラを感じて、だんだん高まっていき、最後には弾ける。対比を見ることで物語の構造がはっきりしてくる。対比を紐解いていくことで、そこに生まれる感動の因数分解ができるのだ。感動の裏には必ず対比と距離とそれを動かす意思がある。

 

「パンとカメラ」には、わかりやすいものから隠れているものまで多くの対比表現がある。各話の対比と見どころをみていこう。

 

 

第一話 出会い篇の対比

 

ヒッチハイクのために自ら歩いていく由佳―エンストで立往生している和也・進んでいく由佳―取り残される和也・部屋の中にいる和也―外で雨に打たれる由佳

 

登場人物や状況を間接的に説明しながら、それぞれのキャラクタ性と今後を暗示させる導入的対比。一切の無駄なく、かつ自然につながっていく。これ1分ってまじか????冒頭における和也の服装がかなりラフなので、おそらく学生旅行か卒業記念の旅ではないだろうか。しかし、その後の和也の部屋はかなりこなれているので、就職からではなく少なくとも大学進学で上京してきているのだろう。見どころは、やはり初登場のふたりのシーン。『すみませーん』が少し裏返りぎみのハスキーボイスの由佳がめちゃくちゃチャーミングだし、かなりのピンチなのに強く言えず流されるままの和也のなんとも言えないもどかしくなる感じもいい。

 

 

第二話 再会(雪)篇の対比

 

・楽しく働く由佳―仕事が大変そうな和也・『ありがとう』と頭を下げる由佳―『すみません』と頭を下げる和也・夢を尋ねる和也―答える由佳・ベンチに座った和也―すべり台に登っていく由佳・見上げる和也―遠くを見ているような由佳

 

それぞれの仕事を描きつつ、第1話をオマージュした再会。対比することで、お互いの今や夢へのスタンスを描いていく。まっすぐ夢を語る由佳のまぶしさと、何も語らない和也が象徴的。全話通して、唯一カメラが出てこない。

 

 

第三話 恋の芽生え篇の対比

 

・写真を投げる和也―パン作りに打ち込む由佳・ぼんやり天井を見上げる和也―パン生地や本など手元を見る由佳(目線が下)・パリ行きをさらりと伝える由佳―驚く和也・本の代金を払おうとする和也―自分で払う由佳・遠くへ行こうとしている由佳―近くに抱き寄せる和也

 

恋の芽生えと同時に、それぞれの夢の状況がより描かれていく。スーツ姿のまま写真を投げる和也と、ひたむきな由佳。恋の芽生えを描く前から、『自分の夢に、嘘はつけない。』ことによる別れを暗示している。お互いが夢に進んでいけば、その道は交わらない。由佳のパリ行きに驚きつつ、夢に必要なもの(本)を払おうとするあたり、経済的な安定を得つつある和也の今と、「行ってほしくない―でも応援したい」の気持ちがせめぎ合っているのがわかる。対する由佳は6回払いだ。この一連のシーンとセリフひとつで、安定と挑戦が対比されている。夢にはお金がかかるのだ。ラストの一コマで、棚にしまわれたままのカメラとフィルムが夢を諦めようとしている和也を象徴する。

 

 

第四話 喧嘩篇の対比

 

・責める由佳―黙っている和也・出ていく由佳―座ったままの和也・日常へ帰ってくる和也―夢へ進んでいく由佳

 

物語の転換である第四話は、これまでの1話~3話との対比である。一話から三話までは基本的に左右に振られていた画が、4話では縦の構図に切り替えられ、奥へ手前へと移動を連続することで画面へ引き込み、登場人物の心象へと誘う。観ていると思わず顎を引きぐっと肩に力が入るような緊張が生まれていく。和也は帰宅手段もバイクから電車に変わっているなど、夢を諦めて安定した生活にシフトしようとしていたのだろうことがわかる。そこからの由佳のまっすぐなメッセージ。本を6回払いする由佳にとってもかなりの出費だったはずだ。1分の短い尺の中でフィルムを受け取った和也の表情を描くのに7秒以上全体の10%が使われており、このエピソードの強度がわかる。和也が夢に嘘をついていたことと、由佳の後押しの影響を描いている。

 

余談だが、現在フィルムは凄まじく高騰している。映像と同じようなモノクロフィルムは1本2,000円ほどだった。箱の大きさは測れないが、縦横7×7は詰まっているように見える。仮に6段入っていたとして58万円ほどだ。由佳すごい。限度額大丈夫だったろうか……となるので、現代では難しいシチュエーションである。今はこの量のフィルムも簡単に売ってないだろうし。

 

 

第五話 旅立ち篇

 

・なにもない部屋に立つ由佳―物に溢れた部屋で寝転ぶ和也・旅立つ由佳―立ちすくみ見送る和也

 

4話の物語の高まりを受けて、これまで基本的に受け身のスタンスだった和也が文字通り走り出す。ふたりの出会いのシーンが再現され、でも再会が予期された1話とはまったく異なる意味合いになっているのが印象的。出会い~別れ、旅立ちまで。由香と和也のふたりの物語は一度幕を降ろす。

 

そして物語は最大の謎である6話へと入っていく。

 

|パンとカメラ最大の謎 第六話

 

パンとカメラの最終話である6話は、謎が多い。これまでの1~5話が比較的わかりやすい構成になっていたのとは対照的に、観る側の解釈の余地が多く、その余地がシリーズ全体の切なさを高め、コンテンツの耐久性を極限まで高めている。いわば切なさの核心であり源泉だ。観た人が全員思う最大の謎「由佳はどこにいったのか?」の真相を探るため、まずは6話で起きる事実を再確認していく。

 

 

6話で起きた事実の再確認

 

・古い民家の庭・ハイビスカスの花をバックにカメラを覗き手で合図する和也・笑い声・老夫婦のモノクロの写真・おじいは無愛想、おばあは笑顔・縁側で撮影・笑い声・おじいさんにもたれかかり、はにかむおばあ・カブに乗り玉石垣の道を走る和也・前カゴにフランスパン・通りすがりに『こんちはー』と挨拶する和也・海を見下ろす風景にバイクを止め、島と夕陽を眺める和也・カメラを構える和也・シャッターを切ると『フジワラくん』の声・振り返る和也・笑顔で立つ由佳・再び景色に向き直り、景色のことを伝えようとする和也・再び振り返る和也・もういない由佳・しばらく辺りを見回す和也・『がんばってね。バイバイ』・手を振る由佳・何かを飲み込むような表情の和也・『自分の夢に、嘘はつけない。』・芝生の上に置かれたフライパンとカメラ・『ジャックスカード』・モノクロ写真・島と夕陽をバックに手を繋ぐ和也と由佳

 

初回から数回まで観た感覚では、カメラの道を進みはじめた和也の「夢を追いかけていった恋人に追いつきたい。会いたいという気持ちが見せた幻想」といった理解が妥当だろう。実際、はじめて観てから数年はそのくらいの理解で飲み込めていた。ラ・ラ・ランドが127分でやってる夢追い人の出会いと別れを6分でやっているのだ。その密度たるや。

 

多くの名作がそうであるように、見る年代や年齢、時代を経て多面的な感想を生み出す、生み出せることは名作の条件なのかもしれない。しかし、パンとカメラは視聴者側の変化とは別に、どこか一抹の違和感があった。なぜふたりは再会しないのだろう。なぜこの終わり方なんだろう。なぜ……?この違和感の正体は、なんだろう?どこから生まれているのだろうか。ここからは、その違和感を出発点に真相を紐解いていこう。

 

第六話の特異点

 

前提としてパンとカメラは企業CMである。ジャックスカードの販促のためにつくられたCMだが、6話最大の特異点は「ジャックスカードが登場していない」点にある。これまでの5話では物語の進行に沿って、由佳か和也、もしくは両方がジャックスカードを使っていた。例外として1話のみ使用はしないが和也の部屋に現物が登場している。

 

しかし、6話ではビジュアルとして出てくるもののロゴと同様物語の外に置いてある。それはなぜか。6話は販促よりも強い訴求があり、そのために他の1〜5話とは異なる構成になったと考えられる。つまり、6話は物語のためにつくられたものであると考えられるのだ。

 

また、最終話のみタイトルがつけられておらず「最終話」とだけ記載されていることも、解釈の余地を拡大している。

 

 

和也がいた場所はどこなのか?

 

まずは6話の状況を紐解いていこう。基本的に物語が地続きに連続していた1〜5話と違い、6話では前回から舞台設定含めかなりのジャンプをしている。最初の疑問は、和也はどこで何をしている(いた)のか?だ。

 

「何を」に関しては、具体的な言及はないものの、想像にたやすい。地域の人のポートレートを撮影したり風景を撮ったりと、その行動からこれまで夢のままにしてきたカメラの道に歩き出した(または歩いている、歩いてきた)と解釈できる。自分の夢に、嘘はつけない。正直にやりたいことをやりはじめた和也の顔は穏やかで笑顔に満ちている。うれしいぞ、和也。思わず登場人物を応援したくなるのは最良の物語の証跡である。

 

一方で「どこで」はどうだろう。この答えは簡単だ。和也がいたのは東京都の最南端の離島、八丈島である。作中での言及はない。……が、なぜわかるか?ちょっと裏技ではあるが、それは筆者が八丈島に住んでいたからだ。ずるである。しかし、なによりも確実な一次情報だ。あっ、ここ!とわかっちゃったからである。はじめて見たときは大変びっくりした。うれしびっくり!地元が出てくるとテンション上がるよね!

 

和也がバイクで地元住民にあいさつするのは、一つの玉石のまわりに六つの石を配置した美しい「玉石垣」。おそらく大里の玉石垣の史跡だ。島流しにされた罪人、流人たちが、日々の食い扶持のため遠く海岸から運んできてつくられたもので、玉石一つにつきにぎり飯ひとつほどの報酬だったらしい。実は史跡といっても、普通の一般民家の石垣である。この道は今も現存していて、観光ポスターでもたびたび登場している。

 

海と小島をを臨む場所は南原の海岸沿いの道路のどこかだ。ここも今は整備され高台から同じような景色を見ることができる。和也が見ている島はその名も「八丈小島」。もともとは有人島だったが、過疎化が原因で八丈島へ移住が進み、昭和42年には無人島になっている。八丈島に訪れた際はぜひ和也と同じ景色をたのしんでほしい。

 

 

第五話が終わった時点の事実と第六話の状況整理

 

以上を踏まえて、和也の状況を整理してみよう。

 

・東京で旅立つ由佳を見送った・カメラの道を再び歩き出した・東京の最南端、八丈島で撮影をしている・八丈島で地元民に親しくあいさつするくらいの月日は経っている

 

レンタルではないバイクで慣れたように運転する姿や地元民との交流の深さから、和也はある程度の期間を八丈島で過ごしていることがわかる。見た目の年齢に大きな変化はないので、長くても数ヶ月〜数年といったところだろう。また、作中で明確な描写はないものの、第五話での由佳の服装はだいぶ薄着なので、おそらく夏頃だと思われる。では、第六話では別れの夏からどのくらいの時間が経っていたのか。季節はいつ頃なのか?そのヒントのひとつ目は冒頭、和也の背景に咲いているハイビスカスにあった。

 

ハワイ、沖縄、オワフ島。南国の島をイメージするときに真っ先に浮かんでくるあの赤い花がハイビスカスだ。余談だがハイビスカスは食べられる。蜜を吸うとほんのり甘く、小学校の下校のおやつとして親しまれているみんなの花だ。(今はだめかもしれない)お土産としてジャムにされたりクッキーになったりしているので機会があれば試してほしい。おいしいよ。そのハイビスカスだが、開花時期が5月〜10月と非常に長い。素晴らしい観光資源だなまじで。第六話の季節は、服装から冬は除外していたが、ハイビスカスの開花から初春から4月も候補から外せる。しかし、特定にはまだ候補の期間が広すぎる。

 

八丈島は常春の国と呼ばれ、亜熱帯の気候だ。温かい風土だが、海風が強くバイクに乗るときは真夏以外は半袖では肌寒い。筆者の予想では9月頃かと思っていたが、ここであらためて一次情報(地元住民)にあたってみた。

 

即レスの父により季節は6月頃だと判明。やはり持つべきものは地元である。ありがとう父。

 

 

由佳はいつまでパリにいたのか?

 

第六話の状況から、ふたりは夏頃に別れたこと、和也は6月頃に由佳の幻想を見たことがわかった。それでは、由佳はいつまでパリにいたのか。海外で働くには、原則として労働が可能な滞在許可証に相当する長期滞在ビザが必要となる。詳細は割愛するが、フランスでの就業はかなり難易度が高く、相応の技術や経験が必要だ。どれだけ情熱があったとしても「パン焼きに」だけでは許可が出ない。

 

由佳が旅行代理店でパリ行きの航空券を購入する際は「パリまで。帰りはオープンで」と伝え買っていた。もちろんジャックスカードで。帰りはオープンという自由が効く形で働きにもいける渡仏。ここで考えうる一番現実性の高い選択肢、それはワーキングホリデー制度の利用ではないだろうか。

 

ワーキングホリデー(ワーホリ)とは、日本と外国の若者の国際交流を促し、互いの親交および理解を深めることを目的として専用のビザが発行される制度だ。日本とフランスの間にも1999年に協定が締結されている。ビザの申請に費用はかかからない、審査は書類のみなど、比較的低いハードルで渡仏することができる。

 

ビザを取得するための条件✓申請時に満18歳以上31歳未満であること (31歳の誕生日の前日まで申請が可能)✓フランスを知るための渡航で、なおかつ仕事に就く意思があること✓フランスへのワーキングホリデービザを過去に取得していないこと✓子供同伴ではないこと

 

フランス大使館ウェブサイトより

 

上記条件は由佳の状況に完全に一致する。もしかしたら働いてるパン屋のフランス支店とか、知り合いの職人に弟子入りするなどの可能性も考えられるが、それであれば一幕でも、一カットだけでもそれを匂わせるシーンが入ってもよさそうだが、実際は由佳の発言のみ。当時の若者の選択肢としてワーホリは確度の高い推論であることがわかるだろう。はして、ワーホリで渡仏できるのは最長で一年までである。由佳はあの夏に渡仏し、最長でも一年後、少なくとも一度は日本へ帰国している。

 

 

実際あの夏からどのくらいの月日が経ったのか?

 

由佳の状況を合わせて、第六話を再度整理するとこうだ。

 

・和也は、夏、東京で旅立つ由佳を見送った(夏に由佳は渡仏した)・和也は、カメラの道を再び歩き出した・和也は、6月の八丈島で撮影をしている・八丈島で地元民に親しくあいさつするくらいの月日は経っている・由佳は、あの夏から長くても一年後には一度日本へ帰国している

 

あの夏を8月と仮定すると、最短で10ヶ月の月日が経過。もしくはその後であれば、1年10ヶ月後、2年10ヶ月後………と年単位で6話までの時間経過を想定することができる。再度の言及となるが、和也自身の見た目に大きく変化が見られないため、長くても5年ほどが候補となるのではないだろうか。6話のセリフは抽象的な表現になっているため、どの年月でも物語は成り立つ。今度はセリフを起点に物語の解釈を拡大していこう。

 

 

「帰ってきたのかよ」から考察するその後

 

言葉はただの記号だ。そしてセリフは言葉でしかない。音や抑揚にはその人物間の感情などの情報が含まれるが、パンとカメラ6話に置いてはふたりの関係は視聴者に伝わっているのでそこから大きな変化を読み取ることはできない。特に由佳のセリフは淡々とした発話に抑えられ、読み解きが難しくなっている。繰り返しとなるが、言葉はただの記号である。しかし、その記号を選択したという事実から逆算することでその人物の心情や状況を読み取ることができる。その言葉はこころのどのルートを通って選択され、声になったのか。時にそれは、発せられた文字情報以上に多くを物語るのだ。その視点から、6話の和也と由佳のやり取りを書き起こすとこうなる。

 

由佳『フジワラくん』和也『おっ、由佳!なんだお前、帰ってきたのかよ。あっ、あの島さ。昨日来た時……あれ?……あれ?』由佳『がーんばってね。バイバイ!』二人『自分の夢に、嘘はつけない』二人『ジャックスカード』

 

ふたりが出会ったときの由佳のセリフがテレコ(前後の入れ替え)でバイバイ!が最後に伝えられるのが切ない。しかし、ここで注目すべきは和也のセリフ『帰ってきたのかよ』だ。さらり伝えられる、帰ってきてたのかよ。最短で10ヶ月会えなかった恋人。インターネットの普及でつながりつつある世界だとしても、パリから帰ってきた恋人に対してのセリフとしては非常に淡白である。パリから帰ってきた由佳にあてたセリフとして、この選択は違和感がないだろうか。そして当然だが、パリから八丈島へ直通便はないのだ。八丈島に行くには羽田空港から飛行機に乗るか、竹芝桟橋から出ている船に乗って一晩が必要である。つまり、パリから八丈島へは国際便と国内便or船の乗り継ぎが必要になる。ゆえに『帰ってきたのかよ』がパリから日本への帰国を示している場合、非常に違和感が生じてしまうのだ。シンプルに考えたら『お前、なんでここに?!』くらい出てもよさそうである。

 

もし仮に和也がEメールやエアメールを駆使して由佳に八丈島にいることを伝えていて、帰国直後にそのまま八丈島まで由佳が来たとしよう。そうだとしても、その後の和也のセリフ『あっ、あの島さ。昨日来た時……』と続くのも、やはりしっくり来ない。感動の再会にしては話題の切り替えが早く、淡白過ぎる。近づいて抱きつくくらいしてもよさそうである。というかしてくれ。幻想のなかだとしても、年単位で会えなかった恋人に昨日の話題である。えっ、なんか軽くない?そのズレ。その違和感。それはどこから生まれてるのだろうか……。この違和感を解消し、物語が成立するためにはここまでに何が起きたかを想像していくしかない。

 

そしてその答えとは、由佳と和也は既に再会していたという真実だった。

 

 

幻想ではない、夕日に隠れた真実

 

先に書いた通り、和也は撮影のために地元民と慣れ親しむくらいの期間、八丈島に定住している。どのくらいの期間かは推察しきれないものの、その親密度から数ヶ月単位であることは間違いないだろう。

 

八丈島に定住していた和也と『帰ってきてたのかよ』のセリフ。この2つを合わせると、ひとつの仮説が生まれてくる。和也の『帰ってきたのかよ』は、パリからの帰国ではなく東京からではないだろうか。つまり、ワーホリを終えて帰国した由佳と和也は既に再会を果たしており、八丈島に居を置く和也と一緒に暮らしている(いた)期間があるという仮説だ。これであれば和也の淡白な態度も説明がつく。一緒に暮らす由佳がなんらかの事情(仕事や都合など)で一度東京に出ては、戻ってくる。そういう日常がある程度の期間あった……。という前提であらためて夕日のシーンを見返すと、そこに隠された切ない真実が浮かび上がってくるのだ。

 

もうここまで4回(計24分)は観ていると思うが、もう一度だけ、目を凝らしてよく見てほしい。まずは和也が夕日を見るシーンから。

 

その後『フジワラくん』と呼び止められ、由佳と会話をするシーン。

 

そして由佳が消えた後のシーン。

 

もうおわかりだろう。由佳との会話の前後。奥の夕日に注目してほしい。その十数秒で夕日の形が変わり、そしてもとに戻っている。そう、由佳と会話をしているシーンだけが時系列が異なるのだ。なぜか?それはこのシーンがどこかでがんばっている恋人を想うような単なる幻想ではなく、過去にあった記憶の再現であるからだ。

 

由佳『フジワラくん』和也『おっ、由佳!なんだお前、(東京から)帰ってきたのかよ。あっ、あの島さ。昨日来た時……』由佳『がーんばってね。(先に家に帰るよ)バイバイ!』

 

夕日の表現から、この仮説が限りなく真実であることがわかった。由佳と和也は既に再会し、そして再度別れていたのだ。季節は6月、由佳はノースリーブ姿なので真夏の記憶かもしれない。その記憶が鮮明に再現され、和也の目に耳にまるで実体を持ったかのように写っている。切ない……。喧嘩はしたけれど5話ではわかり合うために、少なくとも未来につながる再会を期待する旅立つだったのに。なぜふたりは別れたのだろう。『自分の夢に、嘘はつけない。』が二人の人生を分けたのであれば、あんまりである。なんでなん……。その最後の謎。それを解く鍵は、物語を紐解くための最後の視点、対比構造へとつながっていく。

 

|最終話に込められた対比構造

 

これまで1〜5話にわたって物語をより深く理解するために、各話につくられた対比構造を軸に紐解いてきた。では、6話で対比されているものとはなんだろう。6話は由佳が現実に登場しないので、由佳―和也間での対比は見られない。それ以外に大きな対比構造がひとつ、1分全体を通して置かれている。それは、これだ。

 

おじいおばあの写真―和也と由佳の写真

 

冒頭で和也の撮影した写真と、ラストで写るふたりの写真。どちらもモノクロで、左に男性、右に女性。お互いにパートナーと対比構造になっている。長い人生を共に歩んできた老夫婦と、もうありえない未来を写したふたりの写真。和也と由佳の写真は季節のアンバランスさが、より一層もう交わらない人生を喚起させる。さらにここまで使われてきたBGMの蒼氓の歌詞がその文脈を逆転し、和也の心情へリンクすることで、さらに切なさを増強しているのだ。

 

泣かないで この道は未来へと続いている限りない命のすきまをやさしさは流れていくもの生き続ける事の意味

 

山下達郎「蒼氓」より

 

ああ、切ない……。なぜ和也は会いに行かないのか?わたしの推論とは異なるが、たとえば由佳がそのままパリに暮らしているとする。東京でもいい。過去を妄想するくらい恋い焦がれ、焼け付くような気持ちを抱えているならば、会いに行けばいいのだ。それこそジャックスカードを使って。『パリまで、帰りはオープンで』である。しかし、物語はそうはならない。

 

|導き出されるひとつの解 第六話の真相とは

 

以上を踏まえて、答えはではないがひとつの解を示したい。繰り返すが解釈の余地のひとつであり正解ではない。

 

・由佳は、あの夏から長くても一年後には一度日本へ帰国してきた・八丈島で暮らす和也のもとにきた由佳は一緒に暮らした・和也と由佳は別れた・和也は記憶が鮮明に再現されるほど由佳のことを想っている・しかし、もう会うことはできない

 

なんらかの事情により、和也はもう由佳に会うことはできない。永遠に。そう、これは別離ではなく死別だったのだ。こう考えると、白を基調とした由佳の服装や十字架のアクセサリーもまた違った文脈が宿り、胸に刺さってくる。

 

この世に生きている限り、誰もがたどり着く先へ、また一足先に由佳は行ってしまった。それでも和也は写真を撮り続けている。『自分の夢に、嘘はつけない。』から……。

 

|幻の第七話

 

これまでの考察をもとに、ふたりの死別というひとつの解を示していた。正解ではない。なんなら間違っていてほしい。でも……。そう、こういった解釈の余地、懐の深さがパンとカメラの魅力であり、切なさを何倍にも拡張している。

 

これまでパンとカメラの世界を繰り返し6分と書いていた。しかし、賢明な読者諸氏はもうお気づきだろう。動画には6分の先、7:00〜8:30が存在している。

 

JACCSカード 企業CM 「パンとカメラ」'01-'03エース プロテカ protecA 「NEW TRAVEL」篇 '07

 

7:00からは厳密にはパンとカメラの世界ではない。提供もジャックスカードではなく、エースの企業CMだ。パンとカメラから数年後に放映された、いうなればファン向けのスピンオフ。しかし、死別説を踏まえてスピンオフを捉えるとまた違った見え方ができる。これは人生の使い方によってあり得た未来であり、可能性のひとつであり、和也の願いのひとつなのかもしれない。使われなかった人生の選択肢のひとつ。その中でも由佳に再会した和也はこうセリフを残している。

 

和也『またやっちった』

 

また、は何を指しているのだろうか。また遅れてしまった。また間に合わなかった。また。後悔の表象としての言葉の選択。エースのCMでの由佳と和也は、やはり提供も異なるからか微妙にキャラクタの感じも異なる。しかし、『また』に込められた和也の想いを想像すると、こんな感じに異国で再会してごはんを食べに行くような未来があってほしいと想わずにはいられないのだ。

 

|おわりに

 

たのしいは共感できるコンテンツだ。すぐ見れたり、誰かとシェアしたり、加速度的に供給されてくる量に食べ放題つまみ食いしたり。そんな時短速攻中毒性のコンテンツが今は主流なんだと思う。一方で、「切ない」は視聴に時間がかかるコンテンツだ。物語に宿るから瞬間瞬間では生まれないし、バズりにくい。だから、時流ではないのかもしれない。しかし、一度摂取した切ないは自分だけの血肉となり、ひとりきりの孤独としてこころの奥で長く輝いてくれる。そんなあなただけの孤独は何年も、何十年もこころに居座ってくれる。それはきっと誰ともシェアできない類の感情だ。ゆえに耐久性が高く、強い。今回、本稿を書くにあたって100回はCMを観直した。これまでを合わせると200回は、観ていると思うが、まったく色褪せない。そんな深い感動と魅力。物語の強度に感嘆するばかりだ。たった6分という短い時間を共有しただけなのに、もう何十年来の友人のように、ふとした瞬間で和也の幸せを祈っているのだから。

 

和也はあれからどうなったんだろう。どんな人生を過ごしたのだろうか。パンとカメラに出会えてよかった。観れて幸せだ。こんなこころの灯火のようなの名作にもっともっと出会いたいし、これからも生まれてくることを願ってやまない。本稿の最後に、CMで歌われた蒼氓の先の歌詞を引用し筆を置く。

 

生き続ける事の意味誰よりも待ち望んでいたいさみしさは琥珀となりひそやかに輝き出す

 

山下達郎「蒼氓」より

 

切ない。

 

おわり。

ショートショート「夜を返す」

いくら飲んでも酔えない。でもアルコールは回る。そんな人生の2時間をドブに捨てた帰り道。

 

セキュリティと家賃を天秤に掛けた結果、都心から電車で1時間、駅から歩いて20分。無駄に重だるい体を引きずりながらオートロックをくぐり抜ける。エレベーターが点検中。朝出たまんま、変わらずに止まっている。なんでだよ。はぁ。さらに気分も重くなり、5階まで階段を上がる。右足。左足。右足。左足。暑い。耐えきれなくなってワイヤレスイヤホンを外してビニール袋に投げ込む。どっかの誰かの歌声がひどく小さくなって、でも鳴っている。虫の声もする。リーンリーン、ジージー。息を吸い込むと、鼻の奥に川の匂いがした。名前も知らない川の横にあるマンションに越してきて3年。毎日こんなに長いのに、なぜかもう3年だ。はぁ。呼吸を整えると、少しだけ体の火照りがコンクリートに溶けていく。ガサガサ。……これなんだっけ?そうだ、コンビニに寄ったんだった。水と、なんかアルコールに効きそうなビンのやつと、ホイップが載ったプリン。スプーンはつけますか?いらないです。コンビニからしばらくは天使の心でやさしく、地球にやさしく、ていねいに揺らさないようにしていたのに。もう中も見たくない。いらない。ぐるぐるぐるぐる。ぜんぶぐちゃぐちゃだ。

 

 

スマホをかざしてドアを開ける。倒れ込みたい誘惑を振り切って、乱雑にパンプスを脱ぎ捨てる。ドサッと玄関にビニール袋を落とす。もうやさしさの欠片もない。イヤホンの音はいつの間にかなくなっていた。壁伝いにキッキンまで行き、流しに置きっぱなしのグラスとおんなじグラスを棚から取り出す。おそろいのグラス、だったもの。今はただのおんなじ2個のグラス。乱暴に蛇口を引き上げ、水を入れる。ジャー。派手にこぼれたが、どうでもいい。早押しクイズみたいに手を振り下ろし水を止める。グラスに半分は残った水を一気に飲み干して、やっと少し落ち着いてきた。今度はゆっくり蛇口を引き上げる。ツー、トトトトと少しずつグラスに水が満ちていく。もう少しでいっぱい……となる直前、ピンポーンとまた手を振り下ろして水を止めた。

 

リィーン。

 

なんの音だろう。遠くに響くような金属の音。きれい。蛇口を引き上げる。ジャー。止める。ポタ。グラスの水を捨てる。パシャ。ジャー。パシャ。耳を澄ましてもさっきの音はしない。ジャー……。水がグラスから溢れて手を滴り落ちる。今度はさっきみたいに勢いよく水を止める。

 

リィーン。

 

ジャー。ヒュッ。リィーン。パシャ。ジャー。ヒュッ。リィーン。水道管に響いて鳴るのだろうか。パシャ。ジャー。ヒュッ。リィーン。どこまでも響くような、きれいな音。こんな音が鳴っていたんだ。知らなかった。イヤホンもつけてない。テレビも消えている。スマホは充電切れ。ぜんぶオフにしたら、夜は音を返す。

 

 

南向き、ベランダのでかい窓を開けると音がたくさんあった。ザー。川の音。リンリン、ジージー。虫の音。遠くの電車音。コトッとコンクリートにグラスを置くと、おんなじ形に滲んで濃くなる。充電切れのスマホの電源を入れてみたら、ハローとだけ出てまた消えた。片手に収まるただの板のくせに。なんでも出来るドラえもんに思えるときもあれば、結局ただの枷にしかなってない気もする。帰り道、つい見ちゃうSNSやらなんなら。いらない、でも気になる情報の海。過去ってなんで元気の元ってつくんだ?どう考えても元気じゃない。もと、なんて後ろ向き以外で使わないのに。でも「げんき」とか「ゲンキ」なんて書くと、一気に嘘っぽい。元気って、よくよく考えたら前向きハツラツなんて漢字じゃない。完全、ただの元の気分でしょ。一周回ってゼロじゃん。素がまともで、ゼロで息出来る陽キャな奴らだけに成り立つやつじゃん。

 

上司のマイホームも、後輩のキャリアも、パートナー、いや元か。元パートナーのあれこれも、大して興味ないくせに聞くフリも聞かれるフリも、ぜんぶがぜんぶどうでもいい。でも、一番嫌いなのはどうでもいいのにどうでもいいって言えないこと。なんとなく笑ってたら流れていく時間が一番楽ちんで、選ばないをずっと選んでて、やりたいも好きも嫌いも大好きも知らんがなもわかるよもわからないも言えなくて、えへへどっちつかずで笑うときの口角の作り方だけ天才的に覚えてて、覚えちゃって、忘れられないこと。

 

「ねぇ、話聞いてる?なんかさ、ここにいるのにいないみたいだよね。いっつも」

 

知るかよ。聞いてるよ。聞いてるんだよ。でも、その速度で生きられないんだよ。えへへ。口角。この角度。泣きたい。聞いてたんだよ。ちゃんと。でも、言えなかったんだよ。言えるようになったら、もういないんだよ。なんか叫びたくなってきた。いいかな。ダメだろうな。絶対ダメ。東京はこんなにうるさい街なのに、いつだってどこだって叫んじゃいけないだよ。でも、ダメと言われるとやりたくなるんだよね。変なの。どっちが?わたしが……知らんけど。思いきり息を吸い込む。アルコールの残り香と明日1日分くらいの決意めいたものが肺に充電されていく。どうせわたしは明日もおんなじように笑うだろう。2つのグラスをまるでもともと1つずつだったように使うさ、玄関のプリンをほんのちょっと申し訳ない気持ちで捨てるだろう。嫌いな自分から目を背けて、それでもときどきこんな夜を過ごして、やり過ごしていくんだろう。たぶん。

 

「……ばっっっかやろーー!!!」

 

あの、ほら?遠くに見える小さな点。その光の中、マンションの最上階の角部屋にわたしとおんなじような子がいてさ、ベランダでたまたま一緒に叫んで、その声はぶつかって相殺されて、夜に消えてしまう。わたしの声は、わたしの中にいる「どこかのわたし」が、勝手になかったものにしてしまう。叫んでも、叫んでも、声になる前に打ち消されて、「ああ」とか「はい」とか、絞り出されたカスみたいなうめきだけが口から出てくる。口角を上げて笑う。でも、精いっぱい空気を揺らして、不安なくらいほんの少しの波。そのほんの少しが必要なんだ。ときどき。思いきり叫んだぶん、冷たい空気が肺に返ってきた。

 

「うるせぇ!何時だと思ってんだ!寝ろ!!!」

「はーーーい!」

 

夜はわたしに声を返す。返してくれる。音が鳴っている。返ってくる。誰だか知らないあのおっさんに明日いいことありますように。

ショートショート『ヨシダは死にました』

「ヨシダはいねぇのか、ヨシダを出せコラ!」「ヨシダは、死にました。」「…………!!!!」

 

人が、言葉を失った瞬間にはじめて出会った。

 

 

どこにでも、物申したいひとはいる。

 

不満を解消したいわけじゃない。怒ってるわけじゃない。何かを得たいわけじゃない。

 

ずっと、言い続けたい。そんなひと。

 

コールセンターに長く勤めていると、嫌でもひとの嫌な面を見る。たとえどんなに素晴らしい商品でも、会社でも、サービスでも、必ず一定数言い続けたいひとに遭遇する。

 

だって、完璧はないんだもの。ホコリはどこにでも存在するし、叩けば出る。

 

どんなものだって見方を変えたらダメなところはあるし、弱い側面はつくれてしまう。

 

反撃不可の相手にぶつける乱暴な言葉。電話は、そんな負の感情を増幅する装置だ。

 

 

保険会社のカスタマーセンター。

 

業界では中堅に位置するクライアントで、利用者向けの対応に積極的に投資する会社さん。ありがたい。センターの環境も整備されてる。離職率が高いコールセンター業界で、メンバーからも評価がいい。だから、働くうちにみんな親しくなる。

 

決裁権のあるクライアントの担当者(山﨑さん)マネージャーのわたしと管理者数名。シフト勤務の電話対応するオペレーターたち。

 

よくある中規模のコールセンターだ。でも、カスタマーセンターでは珍しいくらいクレームが少ない部署。しっかり投資してる分、お客さん含めて高い質が担保されているのかも。

 

それでも、やっぱり言い続けたいひとはいるのだ。キムラさん(仮名)もその一人だった。

 

「すんごいこと、言いますね。」「だって、このままだと終わりなさそうだからさ。みんなしんどそうだったし。」「ありがとうございます。でも、キムラさんが口をつぐむのはじめて聞きましたよ。」

 

開いた口が塞がらない想像をしながら、あれ?閉口だっけ真逆じゃんと余計なことを考える。

 

言葉にならない、長い沈黙。(あとで音声ログをチェックしたらそんなでもなかった。体感は信用できない)

 

キムラさんは半月に一度くらい掛けてくる、所謂クレーマーだった。商品にかかるご意見からはじまり、相槌を打つたびにどんどん話が飛んでいく。日本の未来。政治。近所のスーパー。昔旅先で詐欺にあったこと。生まれた場所。健康の話題。本当なのか嘘なのかわからないけれど、キムラさんの人生の概要はだいたいわかってしまう。

 

カスタマーセンターは電話を切れない。もちろん暴言やあまりにも対応が難しい案件は、こちらから失礼することもある。しかし、基本的にはお話を伺う。傾聴。お耳を傾ける。その中には貴重なご意見もあれば、ふとなぜこんな話を聞いてるんだろうというものもある。キムラさんは、だいたい後者にあたる。

 

「ヨシダはいねぇのか!ヨシダを出せ!」「あいにくヨシダは席を外しておりまして。」「ヨシダは本日お休みをいただいております」「ヨシダは不在です」「ヨシダはいません」「ヨシダは、」

 

「わたくしがお話を伺います。」

 

「いらん!!ヨシダを出せ!!!

 

エスカレートしたキムラさんは連日電話を掛けてきていた。長ければ数時間、ヨシダを呼び出す。なんとか理解してもらおうと案内しても聞き入れてもらえず、

 

「もういい!また掛ける!!」

 

ガチャリ。

 

そんな繰り返しの日々が続いていた。

 

「正直しんどいです……。」「だよねぇ。どうしようかな。」

 

対策はいろいろ思いつくけれど、強行策の前にできればなんとかわかってもらいたい。

 

でも、メンバーもそろそろ限界。これは、厳しいかな。

 

そんな折、しびれを切らした山﨑さんが電話口に出たのだった。

 

「し、死んだのか……?」「はい。ですので私がお話聞きます。」「そうか……。」

 

ガチャリ。

 

そう、話は3ヶ月前に遡る。

 

 

ヨシダこと吉田くんは、とても優秀なオペレーターだった。

 

若くて、新卒で一年働いたあと会社をやめて契約社員として入社。そこそこ私立大学を出てなんとかこの会社にすべりこんだわたしからしたら、学歴もやめた大企業もバンコクびっくりショーだった。逆立ちしても入れないところだった。あと、逆立ちもできない。

 

A4の整った人生まとめ用紙をながめながら、こんなひともいるんだなぁと落ちすぎた目からウロコを拾うようにポチポチと入社処理をした。

 

入社後も要領よく仕事を覚えていく吉田くん。

 

「ここまでは大丈夫です。ここがちょっと、わかってなくて。もう一度教えていただけますか?」

 

そこは、自分でもマニュアルがわかりにくいなぁいつかそのうち直したいなぁと棚上げしてたから、思わず「だよね!」と言ってしまった。それまでちゃっかり上司感を出していたのに、急なタメ語に面食らったのか、

 

「なんか、すみません。」

 

うかつに謝らせてしまった。こちらこそ、ごめん。

 

吉田くんは優秀なんだけど、どこかでちょっと線を引いてるというか、少し離れた距離感をつくっていた。そういうひとは、いる。

 

いろんなステージのひとが働いているので、深追いはタブーだ。ちゃんと距離をとる。

 

半年ほど電話を取り、すっかりひとり立ちできた頃、吉田くんはキムラさんの電話をとった。

 

要注意人物。

 

電話の仕事をしていると、どうしても避けられないのがクレーム対応だった。

 

 

いまのコミュニケーションは受け手側に立っている。メールもラインも、出てはなくなる群雄割拠のSNSたちも、受け手がいつどのくらい何を受け取るか選べる。

 

でも、電話は違う。掛ける側が優位だ。

 

話を聞くまで用件がわからないし、一方的に時間を奪うメディアである。

 

だから、お客様という優位性を使って何か言いたいひとにとっては、満足度が高いかもしれない。すべてがそうではないけれど、どんなコールセンターにも一定層そんなひとがいるのは事実だ。

 

負の感情増幅装置。何かを、言い続けたいひと。

 

そんな中でときどき、話術やスキルやシステムを越えたところでなぜか解決してしまうパターンがある。

 

それは、結局のところ人と人が話をするからかもしれない。水が合う、というやつだろうか。

 

はじめてキムラさんの電話を取った吉田くんは、最後には爆笑しながら電話を終えた。

 

一同驚愕。やはり、バンコクびっくりショーだった。

 

「あ、いちおう伝えるとカスタマーセンターだから爆笑はちょっと、ね。」「あ、すみません。気をつけます。」

 

ログにはしっかりと商品へのご意見と、キムラさんのちょっとしたクセ、それと話をまとめるタイミングのメモが添えられていた。

 

 

でも、ある日、突然に。吉田くんは出勤してこなかった。携帯も緊急連絡先もつながらない。

 

「大丈夫かな。事故に遭ったりしたのかも。」

 

上長に速やかに報告。勤怠優良。成績優秀。原因不明。連絡不通である。心配がつのる。

 

「一日様子を見て、連絡なければ人事につないで自宅を訪問してみて。二人で行ってね。」「わかりました。」

 

やっぱり連絡がつかなくて、次の日。

 

天明奇天烈、摩訶不思議。原因不明、連絡不通なんです。」「出前迅速、落書無用みたいに言うね。」

 

久しぶりに会った同期の人事と連れ立って、登録されている住所を訪ねた。こざっぱりとした吉田くんらしい外観のアパート。呼び鈴を鳴らすも応答なし。電話しても、中から音はしない。

 

「まいったな。」

 

訪問した事実と連絡がほしい旨を書いた書類をポストに残した。

 

しかし、珍しいことじゃない。ときどき、こんなふうにいなくなるひとがいる。

 

なにか理由があったのかもしれないし、なんとなくかもしれない。真相は藪の中だ。闇の中だっけ?どっちにしろわからないことには変わりない。考えてもしかたない。

 

そうして、吉田くんは、いなくなった。

 

 

それから、しばらくして。

 

「名瀬さん、ちょっと助けてもらえますか?」

 

死んだ(ことになった)吉田くんから、ラインが来たのは日曜日。

 

予定のない休日をダラダラ消化しながら、朝からの雨を言い訳に家に籠もる。でも、さすがにやばいという正体不明の焦りが湧き上がり、手持ち無沙汰のままなんとなく部屋を掃除していたときだった。

 

「えっ、嘘。大丈夫?どこにいるの?」

 

いま、隣の駅のスタバの前にいるらしい。

 

「とにかくすぐ行くから待ってて!」と急ぎ返信して、急いで身支度して、急いでこころを整える。急に忙しい。雨は上がっていた。

 

 

いや、これは、スタバじゃないな。

 

くさっ。

 

久しぶりに見た吉田くんは、申し訳なさそうに小さく手を振っていた。肩にリュックを掲げ、なんか大きいコートをきて、全体的にボサボサだ。ボサボサが服着て立っている。バーバパパにいたな。こんなの。オシャレなオープンテラスとの対比がすごい。

 

「わたしの家、歩いていけるとこだから。シャワー使う?」「ありがたいです。」

 

帰り際コンビニに寄って、食べ物とお菓子と歯みがきやらなんやらを買う。吉田くんは文字通り一文無しだった。ご覧の通りの風来坊を地で行く吉田くん。ぜんぶおごった。

 

「ご迷惑かけてすみません。仕事も急にいなくなって。怒ってますよね。」「怒ってるというか、びっくりしたのと、心配したかな。」

 

怒りというより寂しいだったが、今は仕事の話なので黙っておく。アスファルトの濡れた匂いがした。

 

 

「飲む?」「いただきます。」

 

シャワーを浴びてこざっぱりした吉田くんは、3ヶ月前と変わらないように見える。なんとなく、ビールがちょうどいい気がした。

 

「めっちゃストックありますね。」「ほっとけ。」

 

冷蔵庫を覗き込む吉田くんは相変わらず無表情、かと思ったら笑っている。乾杯して、狭いテーブルを挟んで座った。掃除、しといてよかった。

 

久しぶりのビールは、饒舌にさせたみたい。

 

表情にでないと思ってたのに、見たことない顔してる。アルコールが回る速度も早い。

 

「自分で言うのもあれですけど、ぼくいい大学出てるじゃないですか。」「あれだね。」「んで、けっこういい会社入ったんです。」「けっこうだね。」

 

「仕事も楽しかったしやりがいも感じてたんですけど、ある日クライアント先から帰る途中に、ふと、なんでこれやってんだろう?って思っちゃって。」

 

わかるな。わたしなんか、毎日そう思ってるもの。

 

「そしたら、その"なんで?"がちょっとずつ、実家の天井のシミみたいに消えずに増えていって。あ、天井のシミって実際変わらないのに増えてる気がしません?」「わかるような。わからないような。」

 

「歩いてると気に留めないのに、一回よぎっちゃうと右足からだっけ?左足だっけ?上げるの?下げるの?って考えちゃって、立ち止まっちゃうような気持ちに似てます。」「それは、ちょっとわかる。」

 

「センターの仕事も好きだったんですけど、ある日、ふと"なんでこの話聞いてるんだっけ?"って思っちゃって。」「そっか。」

 

「んで、北へ、行きました。」「北へ。」「はい。」「なんで北なの?」「人は迷ったら北に行くって、山﨑さんが言ってたんで。」「あいつか。」

 

めちゃくちゃ言いそう。思いきりよく無責任をくりだすタイプだもの。

 

「それで、どうだった?」「寒かったです。」「でしょうね。」

 

「お金なくなっちゃったとき、公園でベンチに座ってぼーっとしてたら、なんか急に帰ろうって思って。」「ないの?」「何がですか?」「なんかこう、ガラッと人生観変わったエピソードとか、北で出会った温かい人情とか、決意めいたものが生まれた瞬間とか、そういうの。」「ないですね。」「ないですか。」

 

「あっ。」「なになに?」「青森県ゆで太郎は練馬より旨かったです。」「しょうもない。」「ですね。」

 

「こういうの、大学のときにやると思うんですけど。周回遅れの自分探し。」「いいんじゃない。」

 

北へ行って、くさくなって帰ってきた吉田くん。何も変わらないまま帰ってきた吉田くん。でも、大概そういうものなのかもしれない。

 

「知ってます?キムラさん、昔有名なベンチャー企業の社長だったんですよ。」「えっ、まじで?」「ほんとはいけないんですけど、ググったらまじでした。」「知らなかった。」「Forbesとかに載ってて。」「すごっ」「社会的にも意義のある仕事だったけど、がんばりすぎていつの間にか一人になっちゃったんですって。思い出すと、子供の入学とか卒業とかなんにも思い出せないし、気がついたら奥様も子供も出ていって、会社は大きくなったのに一緒に立ち上げた仲間はいなくなって、ある日自分の仕事の意味みたいなものを見つけられなくなって、株式とかぜんぶ譲り渡して引退したんですって。」「……そうなんだ。」 

 

クレーマーのキムラさんは、わたしにとっては日報の一行で、仕事で、記号だった。でも、吉田くんはちゃんと木村さんと向き合っていた。同じように電話していたはずなのに、全然違う。

 

「ヨシダを出せ!!」

 

キムラさんの声が聞こえた気がした。

 

「あの時、誰かに話を聞いてもらってブレーキをかけてもらえたら、全然違う生き方になってたかもしれないって。なんか、刺さっちゃいますよね。」 

 

ほんとだよ。じわぁと汗をかきはじめたビールの缶を見つめながら、顔が火照ってきたのを感じる。なんとなく言葉がない。

 

ぐいっとビールを煽った吉田くんは意を決した顔をした。

 

「それで、ですね……。」「なに?どうしたの?」

 

吉田くんが言いよどむ。ここまで来たら、もう言えないことなんてないだろう。なんだろう。

 

「3ヶ月留守にしてたら、家が無くなってて。申し訳ないんですけど……。しばらく泊めてくれませんか。」

 

 

当面の生活費を稼がなければならない吉田くんは、センターに復帰して働くことになった。

 

「ほんとにいいんですか?」「まあ、契約期間も残ってるし、たぶん大丈夫だよ。山﨑さんも許してくれたし。」

 

迷惑かけたことを謝りたいとセンターを訪ねた吉田くんの第一声「自分探しをミスりました」がすこぶる効いた。当事者として責任を感じたのかもしれない。「何かあったら必ず連絡すること」が条件。あと、めちゃくちゃ怒ったことにしといてね、と山﨑さんは笑って言った。

 

「あらためて、よろしくお願いします。」

 

面々にあいさつして回る吉田くんの顔は、なんとなく豊かになった気がする。

 

「名瀬さんも、いろいろありがとうございました。あらためて、よろしくお願いします。」「うん。よろしくね。」

 

読めないと思っていた表情にも、ちょっとずつ変化がわかる。受け取る側の精度の問題だったのかもしれない。

 

「あっ、吉田くん。」「なんですか?」「きみ、死んだことになってるから。」「えっ?」

 

 

何年か前に携帯電話のCMで「電話でなら話せることがある」とかやっていた。ちょっと違うかもだけど、そんな感じのやつ。

 

電話は、負の感情増幅装置。

 

だけど、声や言葉以上に伝えたり、受け取ったりもできるのかもしれない。

 

やっぱり、人と人がつながる装置だから。

 

「お待たせいたしました。カスタマーセンターのヨシダでございます」「…………ヨシダ、生きてたのか……!!」「えっ、あ、はい。生きてます。」「そうか。吉田、よかったな。」

 

ガチャリ。

 

それ以来、木村さんからの電話はなかった。

 

 

数年経って。

 

この春、吉田くんは退職した。

 

働きながら資格を取ったコーチングの会社を立ち上げるらしい。よくわからないけど、人に向き合う吉田くんなら向いている気がしてる。

 

あと、来年、わたしは吉田になる。

 

 

 

 

小説「波の間にルーズボール」

夢なんてない。

 

昔も今も、なかった。小さい頃から節目節目で書かされる将来の夢。作文にはキラキラと思い描いた理想の未来を並べてきたけれど、どれも飾りだったし。そのときどきで人気の職業を書けば、同じ輪のなかにいられるし。それで十分。中学くらいからは社会の役に立つことを書いた。意義、意味、平和。そんなのをゴールにおいて、間に身近なエピソードを置く。ひとすじの道ができるようにつなげる。書く。いまのわたしは未来を向いている、ように。それだけで褒められたし、だいたいそれで満点花丸内申点ゲットだ。そういえば、唯一高校のときだけ「ほんとうにやりたい何かが、見つかるといいですね。」と返ってきたことがある。点数は満点。なのに赤字あり。何を書いたのかは思い出せないけれど、たぶん社会に役に立ちそうなものを選んで書いたはず。そうだ、担任だった古文の鳴見先生だ。見つかるといいですね。なにそれ。別に、やりたいことなんてない。なくても別に成績には変わりないし。

 

夢があるほうが偉い。そうだろうか?そんなに大切なんだろうか?4年に一度テレビに溢れる、まだ幼い顔。顔。顔。将来の夢はオリンピックに出て金メダルです。考え方も考えられない頃からひとつの競技に打ち込んで一番に輝く、なんてストーリー。挫折。栄光。成功した人だけの放送。そんなアスリートの特集を見て、すごいと思うが偉いとは思えない。何がすごいかって、ただ同じことをずっとできるのが怖い。その情熱は、きっと本物なんだろう。でも、あまりに小さい頃からやらされてるを見ると騙されてるんじゃないの?って気がしてしまう。他の可能性の芽を摘んだら、道は一つしかない。リソースの集中。それは自分の選択だったんだろうか。

 

「御社が実現したいものを、教えていただけますか?」

 

就活は、一番給料がいいところを選んだ。一番わかりやすい理由で決めた。入ったのは企業向けのコンサルティング会社。業界大手、売上規模は国内市場で第三位。名前は誰でも知ってるが、何をやってるかはほとんど知らない。激務だが、余計なことを考えずにすむから好都合だった。最初は新卒初任給のレートを同期と探り合ったり、大学の友だちと名刺を交換するとマウント取れたりしておもしろかったけれど、忙し過ぎてすぐに忘れた。毎月25日に通帳を記帳するくらいがたのしみだった。数字はただの数字で、楽だ。

 

挨拶。提案。ヒアリング。ゴールを決めさせて、道をひく。必要なものを揃える。中に入って組織のしくみを理解する。決裁の流れを明確にする。要所要所で手を打っていく。やることはシンプルだが、相手には複雑に見せておく。やればやるほど作業が生まれる、ように仕向ける。仕事が仕事を連れてくる。なるほど、これは構造的に激務だ。最初は中小企業のクライアント、それからだんだん大企業相手を任されるようになった。ある程度目処が付けば、契約更新の時に後輩に引き継ぐ。クライアントには新たな視点でとかなんとか、後輩には経験のためとかなんとか、でも結局みんなコストのためだってわかってる。会社の指示で案件を取れない同僚に渡すこともある。別にどっちでもいい。やることは同じだ。

 

斬新な提案、独自の視座。今までにない分析。はじめはそんなふうに企業を変えていく仕事だと思っていた。違った。もちろんそうなるときもある。でも、ほとんどそんなの求めていない。「みんなわかってるのにやれないことを、嫌な顔をされてやる」のが仕事だった。中からは変えられないもの。お金を出して外から言わせて、やっと動けるもの。企業の規模が大きくなるにつれ顕著だ。毎日電車に揺られ、終電を検索し、ため息を飲み込んでいるうちに、気がつくと5年が経っていた。

 

 

「いやぁ、さすが。これでうちも生まれ変わるようです。ありがとう。」

 

今期、取り組んできた大型クライアントの期末レビュー。ネームバリューの大きい、知らない人はいない会社。職歴の一行目に書ける功績。これまでで一番大きな受注だった。金回りがよくて体質が古い。だから、始めたてのダイエットみたいに改善することも盛りだくさん。愚鈍。やればやっただけ、目に見えて効果も出ている。ここまで相手側のウケもいい。売上規模は数千万円、コストも考慮すれば億単位の改善プロジェクトだ。来期も契約更新になるだろう。ふだん顔を見ない会長も参加してて少しピリついた空気があったけど、蓋を開けてみれば上々。このまま問題なく終われそうだった。でも。

 

「ありがとうございます。数字はよくわかりました。それで、うちのお客さんたちは満足したんだろうか?」「えっ、ああ。はい。それは……。」

 

ニコニコ柔和なおじいちゃん。会長の一言に、ことばが詰まる。満足したんだろうか?データは?裏付けは?ええ。それはですね。マウスを繰る手が速くなる。よどみなさ。それはこの仕事で一番必要な信頼の証。詰まるのはイコール理解できていないという証拠だった。致命的だ。でも、とっさにクライアントのプロジェクト担当が「社内でも業務効率の面で非常にやりやすいとの声も多く……」と話題を変えてくれた。同調。つづきまして。時間切れ。そのままレビューは終わり、オンラインミーティングの画面を閉じた。息を吐く。よかった。それでも会長のことばはサビを繰り返しながらフェードアウトする曲みたいに離れない。数字はすべて、結果を示しているのに。

 

「満足したんだろうか?」

 

 

「いやぁ、うちの会長、余計なことを言っちゃってねぇ。すみませんね。来期もよろしくお願いしますよ。」「いえいえ、こちらこそありがとうございました。」

 

会長は現役を退いていて、決裁には直接関わらない。影響力も限定的。そのあたりは調べてわかっていた。わかっていたが。さっきのことばが頭に残っていて、歯切れの悪い返しになってしまう。懇親会という名の打ち上げ。さっきまでオンラインで顔を合わせていたのに、わざわざそれぞれ電車に乗り、無駄に高い店に集まる。おしぼりの温度すら行き届いている類の煩わしさ。意味なんてない。慣例。慣習。領収書。慰労の傘を着た接待。結局のところ飲み会で、接待される側でもわたしは27歳で女だ。さすがにセクハラもパワハラもないけれど、話題にも気を遣い、遣われるのは酷く疲れる。高級な料理もお酒も、砂みたいだ。栄養の味しかしない。なのに酔いは回ってきて、制御にも力を使う。無駄な労力。無礼講なんて最初に言い出したやつ、絶対に酔っ払ってただろ。早く時間が過ぎて欲しい。なのに、盗み見る腕時計の針は遅々として進まない。いつもはあんなに早く回るくせに。

 

「菜切さんって。」「はい。」

 

宴もたけなわ……と古風な挨拶の後、会の終わりに隣に座ったのはプロジェクト担当の平井さんだった。入社3年目。若手。今回のプロジェクトがこれまでで一番大きな業務だったはずだ。頭は切れるが、割り切りも早い。たぶん、この会社向いてると思う。先ほどの助け舟のお礼を伝えて、お互いにお酒を注ぎ合う。

 

「仕事、嫌いになったりしないんですか?」「えっ、どうだろう。なんでですか?」

 

嫌いになったりしないんですか?ストレートではない言い回し。回りくどい気を遣った聞き方には、遠慮とやさしさが混じっている。ようは仕事嫌いですか?だ。

 

「……うーん、その。」「すみません、答えにくいこと聞いちゃって。いつもお忙しそうだから、大変なんじゃないかなぁって。忘れてください。今日はありがとうございました。」

 

おーい!と呼ばれ平井さんは「では」と戻っていった。答えられなかった質問だけが、宙に浮かんだまま。しかたなく、残ってる泡を一気に飲み干した。

 

 

「近いので大丈夫です。今日はありがとうございました。」

 

タクシー送迎を固辞して駅まで歩く。都内のタクシー運転手は、当たり外れが大きい。会話を求められる系だったら最悪だし、領収書、もらうのも渡すのもめんどくさい。それに、少し夜風にあたりたい気分だった。ホームの自販機で水を買い、ベンチでやっと酔いが追いついてくる。もともとお酒は強くない。けど、飲み方は学んだ。仕方なく。そういえば新人の頃一回だけお酒で失敗して、クライアントの担当者に駅で介抱してもらったっけ。後日、上司と頭を下げに行ったな。

 

「たのしいお酒でしたから。気にしないでください。私も飲みすぎました。」

 

あんなに怒られて、恥ずかしくて、情けなかったのに、もう名前も思い出せない。けど、仕事は誰かが引き継いでるはずだ。プシュー。ドアが開いた。案内板を見ると、最寄り駅に着いている。いつ電車乗ったっけ?慌てて降りると、酔いはだいぶさめていた。ペットボトルを座席に置き忘れた。改札を抜けて、通り慣れた道をたどる。大学の時から住んでいるマンションは駅から10分。引っ越そう引っ越そうと思いながら、めんどくさいが勝ってタイミングを逃してきた。たとえ酔っ払っていても勝手に帰れる。もうしばらくそんなお酒、飲んでいないけど。今はベッドとシャワーのためだけの場所だから、どうでもいいしどこでも一緒だ。コスト削減。効率化。慣れが一番楽なわけ。ふと、踏切のそばの並びに目が留まる。コンクリート打ちっ放しのビルの一階。たしか、ここはカフェじゃなかったっけ?いや、その前は居酒屋。その前は、焼肉屋?もう思い出せない。今はテナント募集のビラとともにガランとしている。店名も思い出せないカフェだって、誰かの夢だったのかもしれない。知らないけど。なんだか頭が痛くなってきた。また、酔いが回ってきたのだろうか。

 

そのまま帰って朝。かろうじてメイクは落としていたらしい。頭痛がひどい。そんなに飲んでないはずなのに。残務処理もない。今日は在宅ワークでもいいが、年次有給の消化を急かされていたのを思い出して上司にチャットで申請した。二つ返事で「お大事に」と返ってくる。そのまま脇に転がっていたペットボトルの水を飲み干し、ベッドに戻った。酷くぬるかった。

 

 

転落は一瞬だ。栄枯盛衰。ローリングストーンズ。落ちるという字が付けば、それは終わりってこと。転がりはじめてしまえば、自分では止めるすべがないのだから。キース・リチャーズは、たぶんまだ生きてるけど。次の日も、起きたら頭痛がした。治まってなかった。それどころかひどすぎて吐き気もしてきた。「お大事に」上司からの同じ返事。受診。簡単な問診を終えて、心療内科を勧められる。「お大事に」受診。漢字が並ぶ読んでもわからない病名を言われる。読むのもめんどくさくて、診断書をそのまま人事に送る。「お大事に」さしあたりの引き継ぎ。タイミングがよかったのかメール一つで片付く。頭痛がひどい。目がチカチカする。漏れはないかな。お大事に。お大事に。お大事に。上司からもクライアントからも連絡はない。なかった。気になって、後輩にチャットを飛ばしてみる。「問題ないです。お大事にしてください。」お大事に。お大事に。お大事に。コンサルは激務だ。だから、こういうことはよく聞く。同僚も先輩も、何人か見ている。でもまさか自分とは。まさかはいつだって、自分のところに来てはじめて驚く。食事。服薬。睡眠。あとは、なにをすればいいんだろう?ミック・ジャガーは、まだ生きてたっけ?仕事以外は、まったく問題なかった。レジ袋いります。カードで払います。それください。生活も会話も問題なくできる。お腹も空く。牛丼大盛り汁だくで。卵もつけてください。持ち帰りで。食べる。寝る。おはようございます。今日は一日秋晴れの天気です。明日は冷え込むでしょう。おやすみなさい。7時のニュースです。トゥルットゥートゥー……、世界の何処かの電車で笑いながらお弁当を食べている男。家族に会いにいくのよ、という女性。乾いた土地。太陽。褐色の笑顔。だんだん時間がわからなくなっていく。充電の切れたスマホを拾い上げて会社に今後の相談をしたのは、午前3時だった。

 

「半年ですか。」「そう。期間は任意だが、そのくらいは必要だと思う。」「長くないですか?」「戻るにしろ辞めるにしろ、少なくともそのくらいは休むべきだ。菜切。お前、今の自分のことわかってるか?」「はい。」

 

返事をくれたのは、入社当時メンターについてくれた江嵜さんだった。そういえば、あのとき一緒に謝ってくれた上司も江嵜さんだ。今は順調に出世して本部長職。直接現場には来ないが、一番わたしたちに近い役員レイヤー。そのことばは重い。リタイア。消化不良で胃もたれする響き。キャリアの終わり。引き継ぎも残務も、もうない。というか、もともとなかったわけだけど。

 

「必要な手続きはこちらでやっておく。何かあれば直接個人のチャットでかまわない。いいか。」「わかりました。」「菜切、休めよ。な?」

 

酷く喉が渇いていた。なのに冷蔵庫は空っぽだった。ストックの水もない。スマホを持って近くの自販機まで歩く。朝の空気が肺に冷たい。ゴミ捨てする人。ジョギングする人。新聞配達のバイク。わたしの知らない裏番組。会社も仕事も生活も、ひと一人いなくなっても回るし誰も困らない。自販機はキャッシュレス決裁ができないやつだった。ピッ。120円。しばらく繰り返す。デジタル表示を眺める。何事もなかったように消える数字。なんだよ、ケチ。こっちは喉が渇いているんだよ。こころで悪態ついたつもりが、口に出ていたのかもしれない。ブゥーンと戻ってきた新聞配達のお姉さんが目を丸くしてこっちを見ていた。

 

「あの、飲みます?」「あっ、いえ……。」

 

チャリンチャリンチャリン。ピッ。ガコン。軍手で渡されたペットボトルの水。クシャッと薄いプラスチックがへこんだ。

 

ピピピピピ、パンパカパーン。当たり!もう一本!妙におめでたい電子音が朝の空気に響いた。

 

「えー、すごい!わたしこの自販機で当たったのはじめてです!」

 

お姉さんはあたたかいココアを選び、それじゃあと仕事に戻っていった。ブゥーンとバイクが遠ざかる。自販機はさっきと同じように白々しく立っていた。チッ。なんだよ。冷たい水をゴクゴク飲み干すと、渇きは消えたが芯まで冷えた。寒くてたまらない。小走りで家に戻る。ポストから試供品の新聞がはみ出している。開けるとバサッと手紙の束が落ちた。ほとんどがDMの類だろう。拾い集めて、逃げ込むようにエレベーターに乗る。

 

[家賃再引き落としのお願い]

 

やばい。忘れていた。給料口座にお金はあるけど、家賃の引き落としは大学のときの作った別の口座だ。めんどくさくて変更しないまま、ズルズルそのままにしていた。そういえば家の更新が来月だった気がする。家賃をネットバンキングで振り込む。手数料320円。振込は明日の取り扱いとなります。不動産会社からのメールを確認して、所定の口座へ更新手数料を振り込む。明日の取り扱いとなります。敷金礼金手数料。ここにいるために必要なお金。残高を見る。イチジュウヒャクセンマン、えっと、何桁だろう。年単位で働く必要のないお金が残っている。なんでここにいるんだろう。わからない。大企業のクライアントがだめだったのかもしれない。スマートな細身のスーツも、お腹周りが目立たない仕立てのいいスーツも全員同じに見えたし。3,000円ランチからポケットに手を突っ込んで出てくるおじさんたちに負けたくなかった。負けられなかった。100円のコンビニコーヒーをすすりながら、がむしゃらにやった。働いて、働いて、働いて、その先がこれだ。シュート。ゴール。試合終了。おしまい。赤緑黄色青。カラフルなアイコンをタップして、不動産会社のホームページを開く。あなたの街の〇〇不動産。住みよい暮らしを応援します。問い合わせフォーム。お問い合わせはこちら。よくある質問はこちら。答えはない。探しても、見つからない。そのままさっきの口座に違約金を振り込んで、家を引き払った。

 

 

「涼子、朝よ。起きなさーい。」「……はーい。」

 

寝起きの体を引きずり、ダラダラと鏡の前に立つ。肌荒れが酷い。さいしょに気がついたのはそれだった。家を引き払ってすぐ、人事から連絡が入ったのだろう、緊急連絡先に登録していた父から電話がかかってきた。諸々伝えると、翌日には母が来た。家具も服もぜんぶ必要ない。スーツケースに収まるだけ生活用品を詰めて、電車に乗り、飛行機に乗り、車に乗り、なつかしい玄関に座り込む。道中、母は何も聞かなかった。「おかえり」父もひとこと言ったきり、もう2ヶ月が経つ。朝になれば、起こされる。夜になれば、おやすみなさい。だんだん時間がわかるようになり、体重も増えた。というか、増えすぎた気がする。

 

「遅い。寝坊よ。」「ごめんごめん。」

 

時間に追われることもないのに、つい謝ってしまう。食卓には目玉焼きがのったトーストとパリッと焼いたウインナー。スクランブルエッグ。全体的に朝の匂いがしていた。卵、多いな。冷蔵庫を開けてコップに牛乳を注ぎ、飲み干す。「今日は一日、付き合ってもらう約束でしょう?」「そうだっけ?」

 

情報番組を流し見してると、母が「10時には出るからね」と急かしてくる。そういえばそんな話をしたっけ。父は食べ終えた分の食器を洗いながら、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。ガリガリガリ。ブゥーン。朝の匂いに香ばしさがプラスされる。

 

「今日中にすませないといけないんだから。」「なんだっけ、島カフェ巡りだっけ?」「そう。あれよ、バスケ部のまっつんくん。涼子いっしょだったでしょ。覚えてる?あの子いい子よねぇ。役場の地域課で企画したんだって。」

 

松田松太朗。まっつん。まつ松。松田くん。離島の学校なんて1クラス30人、忘れようがない。たしか高校を出てすぐに町役場に就職したはず。いわゆる地元組のひとりだ。

 

「すずって、なんか冷てぇやつ。」

 

ついでに余計なことも蘇ってくる。これは、いつだっけ?えっと、そう。バスケ部の大会のときだ。島内2校で、勝ったほうが都大会予選のために島外遠征に行ける。部活動最後の集大成。引退試合。最後の年、わたしたちは男子も女子も負けた。さすがに「どうせ負ける」とは思ってなかったけれど、ベストのパフォーマンスでも勝てないだろうとわかっていた。だって、男子は直前に主力ふたりが顧問と揉めてサッカー部にいってしまい、女子はレギュラーのうち3人が生理だった。どうしようもない。今なら何か手を打てただろうか。悔しさはあったが、納得してたし涙も出なかった。

 

「なんか冷てぇやつ。」

 

みんなが泣いてるなか、ひとりどんどん片付けをしてたとき投げつけられたことばだ。なんかってなんだよ。わかるでしょ。あんたもわかってたでしょ。そのときわたしは反論したっけ?涼子だから、すず。小さい頃から馴染んだあだ名が、そのときから嫌いになった。まっつん。まつ松。松田くん。松田?10年も経てば、あだ名で呼べばいいのか名字かくん付けか迷ってしまう。わたしは上京側だから、たまの同窓会ではなんとなく疎外感だったっけ。地元組はよく集まってるみたいで、思い出話は密度も鮮度も保たれたまま。だから、向こうは気兼ねなくあだ名で呼んでくるだろう。すず。松田くん。松田?そのズレを非難されてるみたいで、いつしか同窓会のお知らせはその他大勢のDMと一緒の扱いになっていった。

 

「モニター頼まれたのよ!わたしってば、忙しいんだから。」と母はふふっと笑った。なにかしてないとボケちゃうからと、定年退職してからの母はほんとに多忙にしていた。週2スーパーのレジ打ちパートに、教育委員会から斡旋された学校相談員。ババさんバレー(ママさんを引退したシニアバレーチーム)の主催。方言で演じる地元劇団。なんだかんだで、ギリギリ週休2日のスケジュール。この日曜日にカフェ巡りをやっつけるつもりらしかった。父はといえば、今まで仕事一筋だった反動なのか家事全般が楽しいみたいで、庭に畑をつくったり土いじりをしたりしながらゆっくり過ごしている。このあたりは分担を話し合ったらしい。「ゆっくり回ってきなね。」コーヒーのいい匂いがして、カップに3つ、ちゃんとソーサー付きで置かれた。少し薄めで飲みやすかった。

 

 

湿気が多くて曇りばかり島だが、窓の外はめずらしく冬晴れ。気持ちのいい天気だ。なのに、体が重い。「10時には出るからね。」シャワーを浴びたかったが時間がない。顔を洗って、最低限のメイクをする。東京じゃ仕事以外ではしなかったな。マスクもあるし、どうせ会う人はみんな背景だ。2度は会わない背景。だから、どうでもよかった。でも、ここではさすがにサボれない。小さな輪。〇〇さんのところの娘だの、〇〇の同級だの、名刺に書かれない役職が勝手についてくる。近いぶん、だるい。歯磨きをしながら、観光マップをざっとながめる。「ようこそ島カフェ巡り!スタンプ10こでノベルティをプレゼント」よくある企画だが、デザインはしっかりしてる。へぇ。こんなにカフェだのレストランだのあったんだ。えっ、10こ?

 

「ねぇ、これ。一日で巡るやつじゃない気がするんだけど。」「いいのよ。それをやるのが、たのしいんじゃない。」

 

車のキーを人差し指でクルクル回しながら、母はまた笑った。まじか。

 

 

いらないものは、忘れていく。必要なければ、なくなる。東京に出て真っ先に使わなくなったのは、車の免許だった。大学でも数回、就職してからはまったく車を運転した記憶がない。電車もあるしバスもくる。困ったらタクシーもある。不便は感じなかった。免許はすぐにただの身分証になった。しかし、この島では必要だ。電車はないし、バスは一時間おき。車がないと生きていけない。だから、みんな徒歩10分でも車で行く。東京よりも歩かない暮らしだ。せっかくだし一度運転してみようと思ったけれど、すっかりペーパーだった。感覚が抜けている。いちいちぜんぶ操作を考えないとできなくて、流れるように諦めた。無意識を考えだすと、酷く疲れる。自転車とは違うんだな。それからは助手席が指定席だ。何にも考えずに、左側に回る。

 

「まったく。今度練習しなさいね。」「いいよ。」「もったいないじゃない。」「別に。」

 

パタン、とドアが閉まりエンジンがかかる。ブゥーン。すっかり役立たずの自分をワンボックスの狭いシートに沈めると、景色がぼーっと流れていった。あそこは潰れたのよ。へぇ。〇〇ちゃん家は引っ越してあっちに。へぇ。道路拡張でこの道沿いだいぶ変わったの。はいはい。〇〇くんはこの間東京から戻ってきたらしいわ。へぇ。小学校は建て替えして綺麗になってね。そう。小さい街のささいな歴史。社歴や変遷なら一行にも満たない変化が、バックミラー写ってはどんどん過ぎ去っていく。何人かの〇〇くんと〇〇ちゃんは顔も思い出せなかった。

 

 

「次で、えーっと。5軒目ね。」

 

スタンプ4つ。コーヒー4杯。空港近くのにぎやかな通りで4つカフェをまわり、お腹はタプタプだ。途中でランチも食べた。胃が重い。どれもそれぞれにこだわりがあって、棲み分けされていた。狭い地域だし、競合しても仕方がないということなんだろう。水平線に抜ける大きな坂を下り、海沿いの道を走る。窓を開けると、潮の匂いがしてなつかしかった。

 

「ちょっと!飛んじゃうじゃない!」

 

あわててシート脇の観光マップを掴む。スタンプ4つ。地図に点々と書かれたカフェ。まわってみると、なかなかよく練られている企画だった。ルートもいいし、メニューの紹介もわかりやすい。それに、こういう観光企画はいかに脱落を防ぐかが大事になる。迷ったり見つらなかったりもたのしいが、一定超えると作業化するから。しかも、地方ではグーグルマップが役に立たないことが多い。そんなに頻繁に更新されないし、道も細かいから辿り着けないからだ。そのあたりを「迷ったらココへ!」って、わかりやすい通りの店舗に顔つきで名物おばあが載っていて、上手に拾いつつ交流につなげている。導線設計がうまい。ついつい仕事のように考えてしまい、だんだん頭がチリチリしてきた。息を吐く。マップをシートの間に挟み直し、窓の外を眺める。沈む。いい天気だけど、波は高い。荒れた海。岸にぶつかってしぶき高くなるたびに、潮の匂いが流れていく。

 

「そろそろ3時ね。」「やっぱりこれ、一日だと無理だよ。」「そうねぇ。でも最近は一泊とか、短い旅行の人も多いから。5こずつ分けてもいいかもね。」

 

なんだ、ちゃんと考えてたんだ。「メモに書いておいて」と言われ、ダッシュボード上のバインダーを掴む。氏名、年齢、満足度。1~5番の丸チェック。このあたりはお役所っぽいな。一番下、気がついたこと欄にメモしておく。チリチリ。字が荒れてイライラする。努めて深呼吸。大丈夫。大丈夫。

 

「次はほら、鳴見先生のところよ。高校の。」「へぇー。鳴見先生、お店やってるんだ。」「いいとこよぉ。わたし、常連だもの。」

 

海沿いから一本通りを曲がり、風よけの雑木林に入る。急に暗くなり、舗装された道路からがたがたと砂利道になる。木漏れ日がキラキラとしてて綺麗だけど、海風で揺れが強く、ちょっと不気味さのほうが勝つ。登り道を進んでいく。がたがた。トンネルを抜けると、なんだっけ。この島には、数十年に一度しか雪は降らない。雪の前にトンネルがあればジブリだっけ。高台に抜けると、一気に視界が開けた。

 

「ね。すごいでしょ。」

 

森の先には、車2台分の駐車場とログハウス調のカフェが建っていた。落ち着いたカラーで、新しいけれど風景に馴染んでいる。へぇ。かわいい。鳴見先生のイメージからは想像できないお店だった。エンジンを切って、バタン。入り口にはシンプルだけど、よく手入れされたガーデニングと看板。へぇ。階段を数段登り、木のドアを引く。カランカラン。

 

「いらっしゃいませ。」「あら先生、お世話さまです〜!」

 

もう先生じゃないですよ、いえいえそんなそんな〜。いつもありがとうございます。おなじみらしいジャブを打ち合うふたりに続いて、カウンター席に座る。お客さんはわたしたちだけだった。天井が高い。空調の大きなファンがゆったりと回っている。

 

「涼子さん、お久しぶりです。」「あ、はい。ご無沙汰してます。」「帰ってきてるんですって?」「え、はい。あの、ちょっと……。」

 

ちょっと、には触れず、先生はニコニコと「何にします?」とメニューを渡してくれた。

 

 

「えっ。ここ、先生が建てたんですか?自分で?」

 

トイレから戻ると、ジャブの打ち合いは終わっていた。セコンドでやり過ごすつもりが、とんでもないストレートが飛んでくる。すごいでしょう!となぜか誇らしげな母の後ろ、カウンターの中で鳴見先生が目を細める。柔和な線目は変わらない。シワは、やっぱり少し増えた気がする。

 

「え!?この……これを……?」「ええ。ぜんぶではないですけど。今井くんのところのお父さん覚えてますか?工務店の。その紹介で大工さんとか職人さんたちおもしろがっていろいろ教えてくれまして。5年ちょっとでしょうか。」

 

家って建てられるんだ。自分で。カウンターにテーブル席。床も木目で統一されていて、吹き抜けと階段の上にはテラスもある。すごい。まあ、落ち着いて考えればどんな建物も誰かの手がつくってるのだけど、手作りと言われるとやっぱりびっくりする。

 

「こんなんじゃ先生、風で飛ばされちまうよって言われて、いったん地ならしからやり直したりしてね。知らないことばかりで、たのしかったです。ようやく昨年、ここもオープンできて。」

 

どうぞ、と平たいプレートにチーズケーキ。添えて置かれたカップからコーヒーのいい香りが上ってくる。さっきトイレに行っている間に注文したのだろう。「ここはぜったいこれよ。すぐに売り切れちゃうんだから!」フォークを宙にくるくる回しながら、母がまた謎に自慢げに笑う。すーっとフォークを入れる。しっとりとして、ほどよい酸味。そこからやさしい甘みがほどけていく。たしかに、おいしい。

 

「……おいしいです。」「よかった。ありがとうございます。」

 

世間話が第2ラウンドを迎え、手持ち無沙汰に階段を登る。手で建てたと聞くとギシッと空耳する気がして、でもあたり前だけど一段一段しっかりしていた。コツンコツン。ドアを開けてテラスに出ると、小さなテーブルと椅子が一席だけ海に向いて置いてあった。あんなに荒れていた波も、ここまで離れれば白いなみなみ。うねうねとやってくる線はゆっくり近づいてきて、手前の防風林に隠れて見えなくなる。

 

「ここ数年は、クジラが来るんですよ。」

 

さっき先生が教えてくれた話を思い出す。黒潮。温暖化。海流の変化で回遊ルートが変わったとかなんとか。ホエールウォッチングは、新しい観光資源として期待されているらしい。へぇ。あの何処かにクジラがいるのか。まあ、世界中どこから海を見ても、結局はそうなんだけど。よく目を凝らしてみても、波の飛沫は遠くのもやでしかなくて、わからない。冷たい空気が鼻を抜けて頭がキンとした。上着を持ってくればよかった。

 

「そろそろ行くわよー。」「はーい。」

 

「先生、ごちそうさまでした」ポンッとスタンプひとつ、5つ目。ていねいにお辞儀する母と「またいらしてくださいね」という先生。常連というのは、本当だったらしい。「あ、そうだ。涼子さん。」「え? あ、はい。」「来週の日曜日。夜は空いてますか?」

 

ここは週末だけバー営業をしていて、次の日曜日には移住プログラム参加者の交流会があるらしい。いつもは手伝いに入るんですが、どうしても外せない用事がありまして。よければお手伝いいただけないでしょうか?……えっ、なんでわたし?

 

「移住プログラムは、松田くんが取り組んでて。東京も知ってる涼子さんなら、いろいろお話できたらいいんじゃないかなって思うんです。」「あら、いいじゃない!あなた暇でしょ、暇。」

 

げっ、松田……とこころの声を抑えている間に「よろしくお願いします〜」と母が快諾していた。ありがとうございました、またお越しくださいね。カランカラン。外に出ると風も冷たくなってきた。バタン。助手席のドアを閉め、窓も閉める。ラジオがハイテンションに4時を告げる。トラフィックレポート。首都高が渋滞。しらじらしい保険のCM。胃のあたりが気持ち悪い気がしたが「さすがにコーヒー、飲みすぎたわね」という母のことばが塗りつぶしてくれた。まあいいか。たしかに暇だし。そのうち断る理由も見つかるだろうと、シートに沈んで考えるのをやめた。

 

 

考えないうちに、日曜日が来た。来てしまった。こころと反比例して天気もいい。ダラダラ過ごしながら、気がつけば窓の外が暗くなっていた。やばい。天井を見つめる。いっそこのまま寝ていようかな。

 

「遅刻するわよ。」

 

忘れてましたで通そうとするところを、母に封じられる。最強リマインダー。マネジメントが鉄壁だ。オリーバー・オカーンだからね。まじでくだらない。ツッコミがわりに、のっそりと起き上がってしまった。はぁ。しぶしぶ歯磨きをして、しぶしぶシャワーを浴びて、しぶしぶメイクして。しぶしぶと車で送ってもらった。ドナドナされる迷える子羊の気分だった。あれ、子牛だっけ?どっちでもいい。

 

「あ、今日はどうもありがとう。すずちゃんよね。わたし、みゆりです。よろしくね。」「あ、はい。どうも。」

 

二度目のドアを開けると、美人がいた。美人がエプロンをしている。どこかで見た気がするけれど、どこだっけ?思い出せないけれど、これだけ美人だとそんな気がしてくるものかもしれない。くるっと髪をまとめ上げ、ニコニコとこっちを見ている。

 

「あの、松田……くんは?」「松田くんなら、みんなの家まわって送迎。マイクロバス出してるんだ。もう少しで来ると思うよ。」

 

手渡されたエプロンを腰に巻きながら、やることを教わる。今のうちに説明しとくね。ぶっちゃけそんなに大変じゃないから、ゆっくりやろうね。軽食はここ。始まればみんな好きに食べると思うから、何かあったら声かけて。お皿とかお箸はここから好きに出して。お酒の注文があったらわたしに伝えてね。できたら声かけるから運んでね。あとは交流会だし、気楽に話してれば大丈夫。

 

「ありがとうございます。」「こちらこそ。いつもは鳴見先生が手伝ってくれるんだけど、まあメインはおしゃべり担当ね。」

 

ふふふっと笑う口角が綺麗だった。気を遣ってくれてるのか、いろいろ話しかけてくれるけど会話が続かない。ひとこと。ふたこと。リアクション。おわり。広がらない話題。間に役割とか仕事が置かれてないと、わたしってこんなに話せないんだなぁ。止まった時間が、重たい空気になってとどまる。「……あの、みゆりさんは島の人じゃないですよね?」「うん。そうだよ。一昨年かな、移住プログラムで来てさ。週末はここでバーのお手伝いしてるの。」

 

移住プログラム。引っ越し費用と家賃の補助。住むにあたってのもろもろの手伝い。仕事の紹介。斡旋。そんな感じに2年間お試しで生活してもらって安定した移住を目指す施策、らしい。その一環で隔月の交流会を開いて、困りごとやヒアリングをしているそうだ。ようは、ガス抜きの場ってやつだろうか。なんだか、めんどくさくなってきた。

 

「なかなか、うまくいかないみたい。みんな2年待たずに帰っちゃうのよね。」「まあ、狭い社会ですし。やっぱり、その、やりにくいんじゃないですかね。」「うーん、そうかも。」

 

やっと会話が続いたと思ったら、カランカランと呼び鈴が鳴った。

 

「みゆりさん、遅くなっちゃって。お、すず!久しぶり。今日はありがとうな。」

 

ほらね。やっぱり。気兼ねなく呼んできて、距離なんかないみたい。見慣れないスーツ松田くんに、7〜8人の人が続く。へぇ。ご夫婦。カップル。ランニング好きそうなお姉さん。大人しそうな青年。ご年配に派手な女子。名字もバラバラ。いろんな人がいるんだ。交流会も何回めかの開催らしく、なんとなくそれぞれ自分の席というか立ち位置が定まってるみたい。はじまってみたら、言われた通りみんな好きにおしゃべりしてるし、お願いされるまま注文とったり、運んだり。30分も経ったら、やることがなくなった。

 

「すずちゃんは、東京?」「いえ、島の生まれです。」「へぇ。」「俺たち同級生なんすよ。」

 

松田くんは、このあとまた送迎があるのだろう、ウーロン茶片手にテーブルを回って会話を盛り上げたり聞き役をしている。へぇ。なにげにしっかり仕事、してる。ユーザーボイス。改善。修正。ついつい考えてしまい頭をふる。違う違う。これはただの、飲み会だし。なんか、もっとギスギスした雰囲気なのかと思ったら、意外といいじゃん。こんな狭い世間に入るんだから、めんどくさいことめちゃくちゃありそうなのに。けっこう和やか。生活の話。趣味の話。仕事の話。これどこに売ってます?とか、あれ困ったんですけどどうしました?とか。

 

「それなら〇〇商店がよく扱ってますよ!」「そっすねぇ……。たしかにあそこに頼むとちょっとクセあるかもっす。」松田くんはうんうんうなづきながら、キチッとメモを取っていた。名前も顔も覚えきれないまま、立ったり座ったりしているうちに2時間があっという間に過ぎていった。

 

 

「じゃあ俺、みなさんを送ってくるんで!」

 

いやぁ、ありがとうございます。今度は別でも飲みいきましょう!ははは。おやすみなさーい。少しの酔いとぬるい温度を残して、参加者たちは帰っていった。

 

「すずちゃん、お疲れさま。ほんとありがとうね。助かったよ。」「いえ、なにも。」「何か飲む?」「あっ、いただきます。」

 

なにかつくる?ビールでいい?渇きもあってついビールで、と答えていた。オーケー。静かに注がれたビールは、さっきまでのジョッキではなくて背の高いグラスだった。泡がすごくきれいで見とれてしまう。いつぶりだろう。スーッと喉を抜けて、甘い香りがした。

 

「おいしい。」「いい飲みっぷりね。よかった。」「これ、なんてビールですか?」

 

IPA。ほのかに柑橘。レモンの香り。コトっと瓶をグラスの横に置いてくれた。農夫みたいなおじいさんがにこやかにこっちを見ている絵。ビールなんて付き合い用の飲みものだったから、なんか新鮮だな。写真、取っておこう。

 

「おなかすいてる?なにかつくるね。余りもの、つまんでて。」「あ、はい。」

 

軽食の残りをパクつきながら、ぼーっとカウンターの中のみゆりさんを見る。キッチンスペースで動くたび、まとめた髪が右に左に揺れる。なにつくってるんだろう?パスタかな?オリーブオイルとにんにくのいい匂いが届いてくる。

 

「みゆりさんって。」「うん?」「|丘百合《みゆり》さん、ですよね?鳥取の方のお生まれですか?」

 

よく知ってるね!だいたいおかゆりって読まれるんだけど!シャッシャッとフライパンを振るうしろ姿が笑顔で答えた。

 

「なんていうか、仕事がら人の名前とかよく調べたりしてて……。」「ふーん。」

 

ほとんどもう元ですけど、とふてくされたようなことばが浮かんできて飲み込んだ。いや、飲み込んだつもりで口に出てたかもしれない。久しぶりのビール。ちょっと酔いが回ってきたかも。喉渇いてたしなぁ。口もすべる。みゆりさんはそれには触れずに、よっとフライパンからパスタを二皿盛り付けて、なにやらいっぱいかけている。

 

「|丘百合《みゆり》綾子。綾って書いてりょうこ。名前いっしょよね。すずちゃん方式なら、あや、かな。」「……あやさん。」「そうそう!はい、どうぞ。」

 

オリーブオイルとにんにく、アンチョビ。あとは残ってた明日葉のおひたし。クセの強い島の名産。よく給食に出たなぁ。小さい頃は苦くてあんまり好きじゃなかったのに。パスタにしてもおいしいんだ。知らなかった。

 

「……うま。」「でしょう?これ、めっちゃオススメレシピなの。」

 

コツはね、これ多くない?ってくらいオリーブオイル使うのと、それっぽいスパイスをこれでもかってかけること。ふんふん。それならわたしもできそうな気がするな。

 

「わたし、なにかつくるとどうしてもお酒のつまみになっちゃうのよね。」「うわ、たしかに。これめっちゃ合いますね。どうしよう。」

 

ゴクリ。ビールが進む。フォークをくるくる回しながら、みゆりさん……あやさんは、いいねぇ!と笑う。パスタはすぐに空になった。ごちそうさまでした。はい、おそまつさまでした。今度うちでつくってみよう。おかわりを注いでもらい、なみなみと上がっていく泡を見つめる。なんだか吸い込まれそうな琥珀だ。カランカラン。冷たい空気といっしょに、松田くんが戻ってきた。

 

「えーっ、みゆりさん俺もビール。」「いいの?車でしょう?」「いいっす、いいっす。代行頼むんで。」

 

えー、ずるい。わたしも相乗りしようかな。……いいっすよ。やったぁ!経費で落ちるんでしょ?……抜け目ないっすね。ふふふ。飲もう飲もう!と、あやさんが自分の分もビールを持ってくる。お疲れ様ー!かんぱーい!腹減ったっすわぁ。残った軽食がトントン松田くんのお腹に収められていく。いい食べっぷりだな。すずちゃんはどうする?そろそろ変える?あ、お願いします。ハイボールはスッキリしていて、なんだろう。木の香り?海の匂い?がして、飲みやすかった。〇〇さん元気だったっすね。そうねぇ。〇〇と〇〇くんは別れたらしいっすよ。えっ、そうなの?〇〇さんたちはこの間あのイベントに参加してたな。ふんふん。和やかに見えたけれど、人間関係はあるみたい。横耳で話を聞きながらぼんやりと思い出してみるけれど、ほとんどの〇〇さんは、もう顔も浮かばなかった。

 

「……なぁ、すず。」「ん、なに?」

 

ぼーっとしてるところに、急に話を振られて大きい声が出てしまった。酔ってるのかな。まあいいか。おいしいし。で、なに?

 

「お前さ、あっちでコンサルの仕事してたろ?」「……うん。」「実は相談したいことがあって。ほんとは、先生にすずに声かけてもらうように頼んだの、俺。」「……へぇ。」

 

なんだ。そっかぁ。なんとなく腑に落ちて、でも、もやもやするから、それといっしょに半分くらい残ってたハイボールで飲み干した。

 

「ただ、その前にちょっと聞きたいんだけど。」「……なに?」「相談料って、めっちゃ高い?俺、払えるくらい?」

 

仕事ならちゃんとしないと……と大真面目に聞いてくる松田くんの顔がなんかおもしろくて、吹き出してしまった。いや、高いよ?たぶん。案件規模にもよるけど。まじかぁ。ちゃんとしないと、といったわりにお酒飲みながらだし。なにそれ。どうすっかなぁ……と悩んでる松田くんの背中が丸い。あやさんは、もう一杯、透明なグラスを置いてくれた。お水かと思ったら、シャワシャワしてる。おいしい。

 

「わたし、酔ってる。」「うん?」「酔ってるわね。すずちゃん。」「はい。」「だな。」「だから、いいよ。話聞くだけ。ただ、その代わり責任もなし。聞くだけ。」「まじ?いいの?ありがとうな!」

 

復活した松田くんは、かばんからなにやら資料を出してきた。封筒にクリアファイルにクリップ留め。分厚いな。めちゃくちゃ、頼む気だったんじゃん。ところどころに付箋がしてあって、そういうところやっぱり真面目というか几帳面なんだろうな。

 

「移住プログラム、うまくいってなくてさ。」「そうなの?なんか別に、雰囲気よさそうに見えたけど。」「そう。プログラム中はあんな感じで雰囲気もいいし、特に不満とかトラブルもないし。でも、これで5期目なんだけど、結局移住に至った人って数人なんだ。」「そのうちの一人が、わたし。」っとあやさんがビールグラスを掲げる。なるほど。なるほど。移住したくてくる。しばらく生活もいい感じ。でも帰る。なんでだろう。

 

「へぇ、なんでだろうね。」「人口の問題は大きいから予算もなるべく取ってるし、今はリモートワークもあるだろ?地理的な不利は減ってるはずだし、同じくらいの自治体と比べても、そこまで条件、悪くないと思う。」「ふーん。」

 

資料をパラパラとめくる。四国。九州。伊豆七島。どこも同じような取り組みはあるんだな。交通の便でいうと、たしかに悪くない。この島は東京へのアクセスもいい。パラパラ。パラパラ。ダメだ、文字が情報として入ってこない。読んでも読んでも、通り抜けていくだけ。理解できない。

 

「ちょっと持って帰って、考えてもいい?」「もちろん。ありがとうな。」「まだ、なんにもしてないけど。」「いや、考えてくれるだけでもうれしいよ。ありがとう。」「……うん。」

 

「お仕事の話、終わった?」と、あやさんが笑いかけてくる。そっか。これ、仕事の話なんだ。仕事、か。でも、ふしぎと頭は痛くならなかった。酔ってるからかもしれない。飲み直そ!と、もう一杯。そろそろ限界。なんの話してたっけ?松田くん?まっつん?みゆりさん。いや、あやさん!会長。満足したんだろうか?わからない。お水。自販機。家賃。東京。島。ぐるぐる。ぐるぐる。今何時だっけ?おいしい。琥珀。シャワシャワ。透明。パスタ。……眠い。

 

 

「涼子、起きなさい!スマホ、ずっと鳴ってるわよ?」

 

バッと飛び起きたら朝。あれ、どうしたっけ。……どうしてここにいるんだっけ?

 

「……あんた、くさいわよ。」

 

もうびっくりしたんだから。全然連絡来ないと思ったら、でろんでろんのあんたおんぶして、松田くんが送ってくれたのよ。ちゃんとお礼言っときなさいね。

 

最悪。自分の体から発せられる二日目のアルコールの匂いで、気持ち悪さが戻ってくる。最悪だ。全身が奈良漬けみたい。くさ。ベッドの脇には書類の束とスマホが転がっていた。通知を見るとメッセージと着信が何件か入っている。

 

[昨日はありがとう。たのしかったね][今日、大丈夫そう?無理ならまたでOKだよ]

 

だんだん少しずつ思い出してきた。たしかあのあと、あやさんに移住者の話を聞かせてくださいとか、言った気がする。思い出す。たしかに言ってる。今日?早くない?そういうとこだけスピード持って対応するのは、抜けきらない性なのか。いやたぶんその場のテンションだな、これは……。

 

[すみません、いま起きました。大丈夫です。][じゃあ14:00に先生のお店でいい?][はい。よろしくお願いいたします。][じゃあ、あとでね〜]

 

いま何時だろう?えっと……11時半。とりあえずシャワー浴びよう。なるべく熱いシャワーで流そう。なんにも考えずにお湯を頭からかぶって、やっと少し不快さを落とした。髪をふきながらリビングにいくと、母はもう出掛けていた。

 

「コーヒーでも飲むか?」「いや、大丈夫。ありがとう。」

 

ダイニングテーブルに座る。なにか食べたほうがいいかと思ったけれど、さすがに食欲はなかった。父がお水を入れてくれた。一口飲んだら、食道から今まで何か剥がれて抜けていくみたいな感覚がする。一気に飲み干して、台所に行き、そのままガブガブと二杯飲む。いつ以来だろう。お酒、弱くなったな。ふぅ。ぜんぜん頭は回ってないけれど、とりあえず資料読んでみようかな。他の自治体の取り組むとまとめ。だいたい必要な施策は揃ってる。これは、アンケートかな。満足度4.3。不満はおおむねなし。なにか困ったことはありますか?相談しやすい環境でしたか?問題なし。参加も問い合わせも途切れずにコンスタントに入ってる。プロモーションもまあまあできてる。昨日話していた通り、見た目には満足している、ように感じる。でも、この先。移住には至らない。それはなぜか?これ、けっこうむずかしい問いかも。没頭して読んでるうちに、窓から差す光が小さくなる。「正午のニュースをお伝えします。」資料をまたくくり直して、かばんに突っ込んだ。

 

 

「送っていくぞ。」「大丈夫。歩いていくから。」「そうか。気をつけてな。」

 

考えをまとめたくて、あとはアルコールを抜くために歩いていく。坂を下り、海沿いの道を辿る。海からの風が強かったけれど、心地よかった。移住。生活する場所。支援。条件は揃っていても、なにかが違う。どこかに見えてない原因があるんだろう。二日酔いの体はぐってり重たくて、何度も息切れした。かなり早めに出たのにギリギリだ。水が飲みたい。けれど、自販機もない。ただただ、道。海。空。んもう!吐きそう。最後には走って走って、高台をなんとか登り切り、ゼェゼェいいながら三度目のドアを開け放った。カランカラン。間に合った。「あら、涼子さん。いらっしゃい。昨日はどうも。」「先生、お水ください……。」「すずちゃん、大丈夫?」

 

先生は笑いながら、グラスにお水を入れてくれた。あやさんの横、カウンター席に倒れ込むように座ってコップを飲み干す。遅めのお昼ごはんだろうか。あやさんはコーヒーと、サンドイッチを食べながら旅行雑誌を読んでいた。

 

「昨日たのしかったねぇ。」「すみません。わたし、全然片付けとか……。」「いいのいいの。たのしいお酒だったからOK。」

 

すずちゃん全然変わらないから強いと思って、こちらこそごめんね。いえ、そんな。あやさんは全然変わらない。飲んでも飲まなくても、ニュートラルにこんな雰囲気だ。ちょっと、かっこいいな。

 

「すずちゃんは、なんかめちゃくちゃ仕事できそうだよね。」「いえ、そんなそんな。」「よく人を見てるし、ときどき言う一言がズバッ!って感じだし。」「……わたし、なにかいってました?」「わたしよりわたしの地元に詳しい女、って言われたな。」

 

それは、嫌なやつだな……。ははは、気にしないで。酔えるってことはこころが開いてるってことだし。まじで気をつけます……。陽の光がたくさん入る大きな窓。キラキラと話すあやさんと、奈良漬けみたいなわたし。申し訳なさでどんどん背中が丸くなって、小さくなる気がする。

 

「でも、仕事ができる自分でずっといるのも、大変なんだろうなぁって。」「……そうかも、です。」

 

カランカランと、他のお客さんが入ってきた。観光客かな?二人組の男女。いらっしゃいませ。こちらにどうぞ。先生が奥のテーブル席へにこやかに案内する。

 

「すずちゃん、ドライブ好き?ちょっと出ようか。待っててね。」「えっ、でも。」

 

あやさんは少し迷った様子で、ゆっくり顔を近づけてささやいた。「……(すずちゃん、少し、におう。)」「……すみません。」

 

オッケーオッケーと、あやさんはカウンターの裏からマグ出してきてコーヒーを入れた。サンドイッチはラップに包んでエコバッグに放り込む。

 

「ごちそうさまでした〜。」「先生、すみません……。」「また来てくださいね。お気をつけて。」

 

どれにする?これめっちゃおいしそう!……なんてにこやかな会話をバックに、わたしは逃げるようにお店を出た。

 

 

「乗って乗って。あ、ルーフ開けるね。」「すみません……。」

 

そりゃあ奈良漬けと密室ドライブはいやですよね。ほんとすみません……。あやさんがエンジンをかけていくつか操作をすると、ガコッとルーフが開きオープンになる。いい天気。真っ赤なスポーツカー。見慣れた国産のロゴなのに、左ハンドルだ。

 

「逆輸入の車なのよ。」「へぇ。」

 

シートベルトがはまらずにカチャカチャしていると、「コツがいるの」と身を乗り出してつけてくれる。ふわっと、清潔ないい匂いがした。シャンプーと奈良漬け。左天国、右地獄。左右で世界が天地の差だ。シートは狭いけれど、すっぽりと体が包まれて、なんだか安心する。気を遣ってくれてるのだろう。車はゆっくりと海沿いを走っていく。波の音。風を切る音。エンジン音。顔にあたる冷気と、おしりに響く振動が心地いい。ことばを切り出せないまましばらく走り、よしと、意を決して話しかけてみる。

 

「……あやさんは、」「えっ?」「あの、あやさんは、」「えっ、なに?」「あの!あやさんって!」「ごめーん聞こえない!」「……はい!」

 

海から吹き抜ける風は、会話を奪っていった。おかしいな。こういうの映画じゃ澄ました顔でおしゃべりしてるのに。嘘じゃん。ふたりで大笑いする。少しずつスピードを上げたオープンカーはスイスイと空気を切り、山道に入った。木々が風を塞ぎ、会話が帰ってくる。

 

「この時間なら、峠から飛行機見られるかもね。」「好きなんですか?」「うん。なんかミニチュアみたいで、おかしくない?」

 

この山道は昔、龍が登ってできたとかなんとか、そういう言い伝えが残っている。入り口と出口の法面に丸い玉をくわえた龍の石絵が描かれていて、ちょっとした観光スポットだ。でもアクセスがそんなによくないのと、登っても景色を見るくらいしかやることないから、車通りも人通りも少ない。あやさんは、ときどきドライブを兼ねて飛行機の離着陸を見にいくそうだ。山道はくねくねしていて、ブゥウウーンとエンジンをうならせながら登っていく。

 

「あやさんは、なんでこの島に来たんですか?」「そうねぇ。」

 

沈黙。やることがなくてカーブを数える。ふしぎといやじゃない。話したくないのかもしれないし、ことばを選んでくれてるのかもしれない。どちらでもいい。7つ目のカーブを曲がってから、あやさんはぽつぽつと話しはじめた。

 

「わたし、東京でバーテンダーをしてたの。麻布の〇〇ってお店、知ってる?」「えっ、知ってます。何回か行きましたよ。……接待でですけど。」「そうなんだ。じゃあ会ってたかもね。あそこで働いてたの。」

 

たまたまコンクールで入賞したら、雑誌とかで特集されたりして。東京代表おしゃれな生活みたいな書かれ方されたり。コンビニで並んでる、わかりやすい間接照明のやつみたいなさ。誇張でもなく、嫌味でもなく、淡々とあやさんは口に出す。そうか。その横顔が整っていて、なるほどそうなるよなぁ……と納得する。

 

「お店、それなりの敷居だったから基本いい人ばかりなんだけど、ときどきちょっと引っかかるというか。セクハラまでいかないけれど、答えにくかったりさ。空気悪くしないように、ニコニコ流すわけ。仕事がら、これ、あたり前なんだけどね。」「……わかります。たぶん。」「ね。それで、ある日お店閉めて仮眠して、始発に乗ろうと歩いてたら思ったの。……なんか手が荒れてるなぁって。」

 

手入れもケアもしてたんだけど、なんか自分の手じゃないみたいだなって思って。ふと横見たら、ウインドウに写る顔、クマが酷いし。全然嘘だし。ぜんぶ偽物だし。投げつけられたままのことばが抜けない。帰るときに目が痛くなる朝日も、キラキラした世界のハリボテみたいな自分も、ぜんぶ嫌だなってなって。

 

「……それで、この島に来たんですか?」「ううん。車買った。」「えっ。」

 

ウインドウの奥に真っ赤なスポーツカーがあってさ。なんか無性に欲しくなって、そのまま店の前に座り込んで開店と同時に「これください」って。……めちゃくちゃひかれたな。

 

「……でしょうね。」「でしょう?早朝お店の前に座り込んでる謎の女が、シャッター開いた瞬間に買います!だもんね。」

 

買います、待っててくださいって言って、ダッシュでコンビニいったら50万しか降ろせなくて。家帰って印鑑と通帳持って銀行に駆け込んで。なんかもう意地だったな。300万ちょっとだった。現金持っていくまで信じてもらえなくて、帰り際すごくお詫びされるわ、なんかノベルティめっちゃもらうわで、おもしろかった。その日はなんだかすっごく気分がよくて、久しぶりにぐっすり寝られた。

 

「……それがこの車ですか?」「そう。いい車でしょ。それでね。」

 

実際はそれからなんかいろいろ手続きをして、書類?とか。後日、納車に行ったの。わたしペーパーだったのね。最後に運転したの学生のときだったかな?何年も前だった。だから、もうガッチガチ。何度やってもディーラーの車庫から車道に出られなくて、見かねた社員さんが道路まで出してくれて。「お気をつけて」って、たぶんこころから言われたのはじめてだったな。それで、住んでるマンションまで行こうと思ったんだけど、都内の道って複雑で怖いじゃない?しばらく慣れようと思って、人がいない方いない方に走って、走って、走ってたら、そのまま旅に出てた。

 

えっと、ちょっと脳がついていかないのは二日酔いのせいだけではないはずだ。そのまま旅に出てたって、そんなのある?

 

「たぶん、こころが疲れ切ってたのね。でもちょっとずつ運転に慣れてきて、どんどん進むにつれてたのしくなってきて、ああ生きてるかもって思ったの。」

 

ねぇ、東京で暮らしていると駅のまわりにしか世界がない気がしない?車で走ってみたら、駅と駅の間にも生活がたくさんあっておもしろかったな。カレーの匂い。醤油の匂い。お風呂の匂い。それから、山道でガス欠になってトラックの運転手さんに助けてもらったり、泊まるところ見つからなくってこのシートで丸くなって寝たら腰がめちゃくちゃ痛くなったり、道の駅で車上荒らしに鉢合わせしてとにかく叫んだり。わたし、こんなに大きい声出るんだって驚いた。飲み屋や居酒屋、お酒関連のバイトってどこにでもあるからあまり仕事は困らなかった。遠くにいけばいくほど、わたしをみんな知らなくて楽だったし。

 

「着いたよ」と、あやさんが駐車場の端に車を入れる。ちょうど東京からの飛行機が着陸するところだった。少し遅れて、ゴォーっとエンジンが遠鳴りに届く。

 

「間に合ったね。」

 

ベンチに腰掛けて、間にビニール袋を敷いてサーモマグとサンドイッチを置く。一口飲む。熱くも、ぬるくもない。コーヒーはちょうどいい温度だった。

 

「地方にいくと、移住の話とかこういうプログラムってけっこうあるのよ。でも、なんとなくどこも期間限定だから大丈夫というか。やっぱり長めの旅気分なのよね。この島にもたまたま寄ったって感じ。」

 

フェリーに車を載せてみたくて、というまたなんとも直球の理由だった。見下ろした先で、飛行機がゆっくりと方向転換していた。しばらくしたら、乗客と荷物を載せ替えてまた飛び去っていくだろう。あやさんは大きな口でサンドイッチをパクパク食べていく。見ているだけで気持ちいいが、わたしはさすがに食欲がなくてちびちびとコーヒーをすする。 

 

「なんで移住したかだったよね。まあ、まだずっと住むって決めたわけじゃないんだけどさ。さっきの峠の入り口のところ、あるじゃない?」「龍の絵があるところですか?」「そうそう。ここに来て半年くらいだったかな。やっぱりなんとなくいられないというか、別のところにいきたくなってきて。気分転換にドライブにきたの。そしたら、」

 

入り口のところで車がパンクしてしまったらしい。しかもボルトが割れていて応急修理も不可。都内ならJAFなりなんなり呼べばいいが、ここではそうもいかない。あの辺りは電波も悪いし。

 

「たまたま、モービルの龍一さん、わかる?」「あ、わかります。中学の先輩です。」

 

バスケ部の2つ上の先輩で、粗暴というか喧嘩っぱやいというかトラブルの噂で有名だった。家の事情とかで、高校から島外に引っ越したはずだ。

 

「両親が離婚されて、いったんお母さんに着いていったんだけど。お父さんが亡くなって島に帰ってきたの。お店継いで、今二代目だって。」「そうなんですか。」

 

わたしより島事情に詳しいあやさんは、すっかりここの人に見える。なんだか変な気持ちだけど、いやじゃない。

 

「龍一さんが、たまたま通りかかって。」「へぇ。そんなエピソードが。」「だと思うじゃない?あの人、なんて言ったと思う?」

 

「このクソ忙しいのに。女のくせにこんな車乗るからだ」って。びっくりでしょう?ほっこり島民ふれあいエピソードじゃないのよ。あやさんは怒りを思い出して、それを飲み込むようにコーヒーに口をつけた。

 

「うわぁ……。なんとなく、想像つきますけど。」「わたし、それにブチギレちゃって。それからさんざん言い合い。初対面でなんでそんなこと言われなくちゃいけないの、何様ですか!うるせぇ!なによ!お前こそ!って怒鳴り散らして。最後には黙って待ってろってぽつんと残されてさ。まあ、あの人レッカーで返ってきて、そのまま乗せてくれたんだけど、人生一気まずいドライブだったな。」

 

考えただけで嫌な時間だ。わたしならぜったいに歩いて帰る。

 

「後日、車取りに行ったらたしかに忙しそうで。お父さんの仕事引き継いだばかりで全然回ってなかったのね。それからなんやかんや話していくうちに、まあ手伝ってやるかって思って。今はそこで働いてる。」「まじですか。」「うん。まじ。後から聞いたんだけど、どこぞの島外から来た生意気な女が調子乗った車で走り回ってるって噂になってたんだって。嫌よね、そういうの。」

 

でも面と向かって言われたのはじめてだったし。そういう言い方はよくないとか、どんな車乗っててもいいはずだとか。真正面からケンカできたのがなんだかうれしくて。それに後から彼、何度も悪かった俺が間違ってたって謝ってくれたし。変われるのって、いいじゃない?

 

「うまくいえないけど、なんとなくこれが今もここにいる理由って感じかな。あれで、ふしぎとここが自分の場所だって気がしたの。あのまま特に不満もなく過ごしてたら、やっぱり東京帰ってたと思う。」「そう、ですか。」

 

制度も整備され、よく手がまわりて、気にかけて。満足5の不満なし。十分に整っている。しかし、整いすぎてると、自分の場所にはならないのか。なるほど。

 

「参考になりました。ありがとうございます。」「そう?よかった。」

 

自分の場所、か。人はなにを求めて移住とか、するんだろう。なにが欲しくて、もしくは嫌で。わからない。でも、あやさんの旅の先がこの島でよかったな。なんとなく、そんなことが浮かんだ。サーモマグから湯気が立ち上る。その先からゴォーっと音がしてくる。ミニチュアのような飛行機が、今、離陸して飛んでいった

 

 

そろそろ帰ろうか。無意識に左側に回ると、あやさんがいたずらっぽく笑った。

 

「運転してみる?」「えっ。いや、違います。間違えました。」

 

いいじゃん、この時間あんまり車通らないし。やってみなよ。ポイッと車のキーが投げられ、迂闊にキャッチしてしまった。革のしっかりとしたキーホルダーと、なぜか数年前に流行ったキャラもののストラップがぶら下がっている。なんだっけこいつ。

 

どっちがブレーキでしたっけ?と聞くと、さすがに怯んだ顔をされたけど「いや、初志貫徹だから。」と、ていねいに教えてくれた。ハンドル。クラッチ。パーキング。カーステ。ワイパー。よし。もうどうにでもなれだ。保険は誰が運転しても大丈夫なものに入っているらしいし。

 

「……いきます。」

 

はじめはブレーキだのクラッチだのいっていたあやさんも、あきらめたのか後半は両手を握りしめて目を瞑りシートに沈んで祈っていた。ガッコンガッコン止まったり進んだりするたびに、小動物みたいにちょこんと跳ねる。ちょっと待って!はい!落ちる!ブレーキ踏んで!はい!なにこれ。あやさん、まつ毛なげぇ。前見て!すみません。落ち着いて!……ようやく峠を下り終えた頃にはすっかり夜が降りていて、ひやりと背中が寒かった。シャツが貼り付いている。心臓がバクバクする。

 

「……生きてる。」「……生きてるわね。」「代わってください。」「もちろん。」

 

二人でひとしきり大笑いした。少し回り道して、ちゃんとドライブし直して、家まで送ってもらう。

 

「じゃあね。」「今日は、ありがとうございました。」「うん。またね。」

 

真っ赤なスポーツカーは、夜に気持ちいいエンジンを残していく。街灯の少ない道を都道に向かってスイスイ進んでいった。すっかり二日酔いも抜けたらしい。なんとなく、車が見えなくなるまで手を振っていた。

 

 

「……整いすぎてる?」

 

松田くんにラインをしたら、すぐに「明日のお昼休み、先生のとこでいいか?おごります。」と返ってきた。父のパソコンを借りて、久しぶりに資料をつくる。資料といっても要点をつらつら書き出しただけ。テーブルに置きっぱなしのノートパソコンは父いわく「うちで一番高価なインテリアになっている」らしく、セキュリティのアップデートに半日かかった。キーボードをカタカタしている時間より、そっちのほうが長かったくらいだ。コーヒーを飲みながら、全然信用できない「あと何%何時間です」をながめる。ぼーっと考えをまとめる。二日酔いは残っていたけれど、ふしぎと頭は痛くならなかった。それから数日かけてレポートにまとめた。渡した資料を真剣に読み込んだ松田くんは、ふしぎそうに聞いてきた。

 

「そう。整いすぎてる。厳密に言うと、不便さとか乗り越えるハードルが残っていないって感じかな。」

 

制度も仕組みも整っているのはいいことだ。アンケートの結果も満足がほとんど。でも、この結果は長い旅行や滞在の視点で答えられている。だから、固着できない。ある程度の不便さが残っていて、それを解消することではじめて生活が自分ごとになるんじゃないかな。参加者は減るかもしれないけど、選択肢や自主性に委ねる部分をもっととってもいいのかも。そのほうが、移住というターゲットには近づくと思うよ。強いことばも断言もない。データも定量化もない。ただただ、つらつら考えを伝えただけだ。仕事だったらダメかな。ダメだろうな。でも、わたしの考えは、ある。入ってる。松田くんは真剣にメモを取りながら、いくつかの質問を返してきた。どうだろう?わからないところは正直にわからないと答えて、松田くんの考えも聞いてみる。へぇ。なるほどね。そうかもね。それもあるかも。

 

「そっかぁ。不便さ、かぁ。それ、全然わからなかったなぁ。思い当たる節めっちゃあるよ。」「中にいると気が付きにくいかもね。わたしもあやさんと話してかは、ちょっとわかった気がするし。」「ありがとう。すごく参考になったよ。」

 

同級生なのにバカていねいにお辞儀されると、なんだろう。ドキドキしてしまう。

 

「まっつんはさ、仕事。好き?」「えっ、どうだろう。」

 

急に、口から出た問い。浮いたままの、わたしはうまく答えられなかった質問。じっとこっちを見返したまっつんは、一口コーヒーを飲んで答える。

 

「中学のさ、バスケの最後の大会。覚えてる?」「……うん。」「あの試合の第2クォーターかな?リバウンドでルーズボールになったんよ。ボールが宙に浮いて、ゆっくりエンドラインに飛んでいって。」

 

今でも夢に見るんだけど、とまっつんは顔を反らしてさびしそうに笑った。

 

「俺、飛び出せば捕れたと思うんだ。だけどやらなかった。ほら、試合前からゴタゴタしてたじゃん?だから、どうせやっても負けるだろうみたいなのと、負けても別に言い訳もあるしってのが頭よぎった。」「……そうなんだ。」「結局ほんとに負けるし。たぶん後悔?してるんだよね。ちゃんとできなかった、やりきれなかった自分ってのに。すずにも酷いこと言っちゃったし。」

 

ほんとだよ、と冗談で返せるくらいには時間が経っていてよかった。「ごめんごめん。」と笑ったあと、ほんとごめんなって真面目に言い直すところ、変わってない。

 

「俺、この島好きなんだよ。生まれ育ったところだし、いいところもいっぱいあるし。だから、やれることはやりたいんだよね。自分にがっかりしたくないし。それで誰かの役に立つなら、まじでうれしいし。だからたぶん、仕事は好きだと思う。……あれ、これ答えになってる?」「……たぶん。」

 

それから他愛もない話をして、昼休みが終わるまっつんは仕事に戻っていった。カランカランと呼び鈴が響き、ドアが閉まる。あと一口。残ったコーヒーはもう冷めていた。

 

「おかわり、淹れますか?」「お願いします。」

 

冷めたコーヒーを飲み干し、カップを返す。新しい湯気がコポコポと注がれる。湿った温度と、いい匂いが立ち上ってきた。

 

「先生。」「なんでしょう?」「……うちの母に松田くん紹介したの、先生でしょう?」「……はい。お節介でしたか?」「いや。でも、こんな回りくどいことしなくても先生が直接言ってあげればいいのに。」「そうですねぇ。なんていうか、あれです。ことばはどんなものかより、誰からかのほうが響くって、ありますから。」

 

たしかに、不便さを残すなんて答えには至らなかっただろう。ちょうどいい距離の外野、わたしくらいの位置だったから言えたことかもしれない。

 

「……それに。」「はい。」「いえ、なんでもないです。」

 

それに。それに先生は、わたしの先生でもある。ことばは誰かからのほうが響くこともある、か。やってることは同じなのに、頭は痛くならなかった。なぜだろう。何が違ったのか、まだわからないけれど。

 

「そういえば菜切さん、私がなんで教員になったか。お話したことありましたっけ?」「えっ、ないです。なんで先生になったんですか?」「それはですね。」

 

洗い終えたカップを拭きながら、先生は笑いながら言った。

 

「お給料がよくて、安定してたからです。」「へっ?」「当時、一番お給料がよくて雇用もしっかりしてて。ほんとにそれだけ。潰しが効くって言われて、ただなんとなく大学で免許を取って、一番条件のいい仕事を選んだらこれでした。」「ちょっとびっくり。」

 

でしょう?なんていいながら、先生は自分用のカップにもコーヒーを注いだ。

 

「いいんですか?先生がそんなこと言って。」「生徒には言えなかったですねぇ。でも、あなたはもう大人ですから。でも、今思えば生徒にも言ってよかったのかもしれません。今の時代なら、言えるでしょうね。」「……。」「やりたいことなんて、なくていいんです。夢なんてあればいいけれど、なくても全然大丈夫。やりがいなんて見つかればラッキーくらいで、なくても生きていける。でも、やってるうちに手に入るものもけっこうあります。いや、ありました、かな。」「そっか。そうかも。」「ええ。」「先生。」「はい。」「……ありがとうございました。」「いえいえ。」深く息を吸うと、香りが肺の奥まで入ってきた。ほんの少しだけ、息がしやすくなった気がする。そういえば、江嵜さんはあんなに怖い顔してるのにスイーツ巡りが趣味だったな。まだ好きなのかな。よし。写真、送ってやろ。

 

「チーズケーキ、まだあります?」「ええ。ありますよ。」「あ、松田くんにツケといてくださいね。」「いいですよ。」先生はまた、いたずらっぽく笑った。わたしはまた東京に戻るんだろうか。戻って仕事をして、誰かの何かを解決して、答えを見つけて。その先になにが手に入るんだろうか。役に立つってなんだろうか。

 

「どうぞ。」パシャっと写真を撮って、久しぶりにチャットを開く。上下にスクロールすると、スルスルと流れていく文字。仕事。報告。引き継ぎ事項。お疲れ様です。お世話になっております。よろしくお願いいたします。最後のトーク画面で立ち止まる。ほんの数ヶ月前なのに、並んだことばはもう別世界みたい。

 

ぜんぶは一度に飲み込めない。けれど、ひとさじ。すーっとフォークをおろす。ひとくち。口の中でほどけていく。真っ白なチーズケーキを崩して、少しずつ口に運んでいく。酸っぱくて、甘くて。頬が熱くて、しょっぱい。この前よりもちょっとだけ、おいしい気がした。おごりだし。

つくるをつくる私たちは

鼓動がはやい。呼吸が乱れている。自覚してる。音を吸収する素材がはられた壁。なのに、心臓の音がうるさい。なんで?これ、聞こえてるんじゃない?迷惑じゃない?そんなわけないのに、焦る。そうだ。汗を握っていた手でスマホを確認する。ちゃんとマナーモードになっている。さっきしたもん。すべって落としそうになる。やばい。

 

大丈夫。大丈夫。落ち着け。落ち着け。

 

意識して呼吸を深くする。足に力を込めて、膝を見つめる。ゆっくりと息を吐く。

 

「じゃあ、よろしくお願いしまーす!はい!3…2…、、」ディレクターの指とともに赤いランプが付く。

 

顔を上げた先、四角い窓ガラスの奥。そこには「なりたかった私」がいて、でも、座っているのは私じゃない。

 

 

小さい頃、アニメに出てくるヒロインが大好きだった。日曜日の朝にやっている、キラキラふわふわの女の子。少し大きくなってから、声優という人がいるのを知って、猛烈に憧れた。なりたかった。

 

憧れのまま突っ走り、高校在学中にオーディションを受けた。受かった。たぶん、才能みたいなものがあったんだと思う。その時はそう思っていたし、卒業してすぐに養成所に入った。特待生みたいな扱いが気恥ずかしく、でも心地よかった。がんばって、がんばって、がんばって、声優以外にも求められるものはなんでもやった。海にもプールにも遊びに行ったことないのに、水着は着慣れていった。

 

瑞波とは、その時に出会った。誰よりも声の鍛錬をしていて、もちろん私だって負けないくらいにがんばっていたけど、でも私たちにくるのはラジオだのイベントだのグラビアだの、声以外の仕事がほとんどだった。「なりたかった私」に近づけば近づくほどに、やりたくないことも近寄ってくる。毎日ニコニコお疲れ様でーす!な笑顔が貼り付いて、もうなんにも疑問に思わなくて、ある日たまたま帰り道に本屋に寄って雑誌をパラパラしていたら、小さい切り抜きの中で笑顔の自分がニッコリこちらを見ていた。

 

えっ。誰、これ?

 

そしたら涙が止まらなくなって、足に力が入らなくなって、ごはんがおいしくなくなった。消費されることに耐えきれなくなった。もう、無理だった。少しして、わがままをいってやめた。

 

最後に会ったとき、瑞波はなんて言ったっけ?事務所に挨拶に行って、その時すれ違ったはずなのに、思い出せない。

 

 

レギュラーでもらっていたナレーションの仕事。どこかの街の魅力を紹介する番組。小さいけど、ていねいにつくられているのが好きな現場だった。実は……、と事情を伝えて、決められた後輩に番組を引き継ぐ。いつものディレクター。ぬぼーっと背の高い坂口さんは、見た目大食いチャンピオンみたいなのに胃が弱いらしく、いつもペットボトルの温かいお茶を飲んでいた。そのときも、待ち合いのブースでお茶を飲みながら雑談していたら「実は独立して会社をつくるんだけど、こない?」と誘ってくれた。

 

「私、まじでなんにもできないですよ……?」「大丈夫大丈夫、猫の手も借りたいくらいだから」

 

たまたまの縁。ありがたく転がり込んだ先はPRや企画をする会社で、まじのまじに猫の手だった。大戦争くらいに猫が欲しい。それでも足りない。不規則とか急なスケジュールとか忙しさには慣れてるつもりだったけど、自分で自分を忙しさに投げ込んでいくような、やればやるほど時間が足りない毎日は大変で、でも忙しさがなんでも忘れさせてくれた。経験ゼロから必死で食らいついていくうちに、(とりあえず買った)スーツは、ワンピになり、ブラウスになり、Tシャツになり、爪は短く髪はアップ、コンタクトはメガネ、ヒールはスニーカーになった。当時の私は、ほとんど走っていたと思う。歩いた記憶がない。

 

立ち上げからしばらく、会社も実績をつくりたくて、依頼されるものはなんでもやっていた。坂口さんは人当たりもよくて「坂口さんとこなら〜」の依頼も多かった。最初の頃は、私に名前や声で気がついてくれる人もいてドキドキしていたけれど、そう、世の中の消費は速い。すぐに忘れられたし、私も忙しすぎて気にならなくなった。エンタメのお客さんと近いところにいた経験とか、とりあえずニコニコしてるとか、わかんないところはすみませんもう一回お願いします!と粘るとか、今までの私の強みはなんでも使う。終電が始発になり、睡眠が仮眠になり、シャワーは隣の雑居ビルの満喫になり、帰らない家の家賃の意味を考えるようになった。雑用もなにもかもやれることをやるおかげで、入口から納品までだいたいの仕事がわかるようになった。予算が取れなければ、手弁当で私がナレーションを入れた。

 

 

「正直助かってる。ありがたい。でも、ナレーションはこれで最後にしよう」

 

ある日、馴染みのスタジオでナレーションを録りおわったときだ。坂口さんがお茶を飲みながら、唐突に、でも目を見て言った。

 

「えっ、ダメでした?」「いや、そうじゃなくて。うーん、うまく言えないんだけど、それ北田さんの仕事じゃないから」

 

私の仕事じゃない。たしかにそうだけど、面と向かって言われると鼻の奥がツーンとしてくる。自分からやめたのに、なんてわがままなんだろう。でも、ここを認められると、これが仕事になるとうれしいということは、まだ全然引きずられているってことだ。表現は、呪いみたいなものなのかもしれない。

 

「予算がないなら、その分の仕事になる。今更だけど、それがあたり前なんだよね。今のやり方じゃいつか無理がくるし、北田さん、割り切れなくなると思う」

 

そうかもしれない。心のどこかで、私はしがみついている。いたんだと思う。声は筋肉だ。やめればやめるほど、戻すのにはその倍以上の時間がかかる。わかってる。その日を堺に、私はこっそり続けていたトレーニングを一切やめた。

 

 

数日後、坂口さんはみんなを集めて、いつもみたいにでっかい手でマグカップを手にしながら、会社を小さくすることを伝えた。お茶は、もう冷えていたのかもしれない。

 

「できるだけ、納得できる仕事をしたいと思う。なにかを創りたくて会社をつくったのだけど、今更だけど今の形じゃない。お金を作るのと、何かを創るのは、やっぱり違うよね」

 

みんなそれぞれ働き方が限界に近いのはわかってたから、異論は出なかった。でも、何人かはその場で退職について確認していた。

 

「いま、なにをつくってる?を大切にしたい。いろいろと足掻いてみるけど、それでダメなら、ごめん」

 

ダメなら、ごめん。坂口さんが言うと、ふしぎと無責任には聞こえなかった。むしろもっと強い、背筋が伸びるようなことばだった。

 

 

みんなで今受けてる仕事を片付けてから、会社は拠点を都内から少し郊外に移した。それからまじのまじで、平社員の私から見てもわかるくらい会社は傾いたし、ほんとにギリギリのギリで今月を乗り切る!みたいなことが続いた。実際に何人かは去っていった。でも、地域に根ざした活動とか、やっと、少しずつだけど納得できる仕事の数は増えていった。

 

「決まったよ!」

 

大手の広告代理店とかもこぞって狙っていた大型案件。確実に今までで一番大きな仕事で、受注は奇跡だった。その領域に関係する活動が評価されたのだと思う。すぐに、社員総出で(ちゃんと寝ていっぱい食べて無理なく)全力で取り組んだ。細かいところを詰めて企画が通るまで、たくさんぶつかった。特に拠点を移した後に中途で入ってきた宮田さんとは、直接やり取りする領域だったからかなりケンカしまくった。宮田さんは人のいいおじさんという風体なのに、大手から「家が近い」って理由で転職してきたおかしな人で、めちゃくちゃ仕事ができるし、いつもニコニコしてて、でも芯ではすごく頑固だった。だから、ぶつかりがいがすごかった。

 

「プロモ動画のナレーション、誰がいいっすかね?」「うーん……。あ!みずみーは?どう?水嶋みずは」「あー、いいっすね。あの透き通った声の感じとかぴったり感ある」「アイドル売りしてるときはよくいるタイプって感じでパッとしなかったけど、ここ数年すっごい好きなんだよねぇ〜」「ミヤさん、めっちゃファンですよね」「うん。最初に娘がハマって、それから妻も俺も大ファンよ」

 

瑞波。

 

久しぶりに聞いた名前に反応しないようにしたけど、一瞬。その一瞬はやっぱりバレていて、坂口さんがこっそりこっちを見ていた。私はゆっくり息を吐いて、首を小さく振る。

 

大丈夫です。それは私の仕事じゃない。

 

キャスティングは宮田さんの領域だ。そして、宮田さんの感度は正しい。客観的に見て、今、この企画にぴったりなのは瑞波だと思う。間違いない。

 

「案件規模もイケると思うし、企画の文脈にも合いそうだよね。あとはスケジュールかなぁ」「ダメ元でも、いっちゃいますか」

 

スケジュールかぁ。たしかにそれはちょっとあるかも。規模が大きい分、こちらも融通しにくいし。そんな心配をよそに、打診してすぐに二つ返事で快諾。瑞波に決まった。坂口さんはあれ以来、何も言わなかった。

 

 

「よろしくお願いします」

 

久しぶりに会った(といっても顔合わせで私は端っこにいただけだ)瑞波は相変わらず凛としていて、でもすっと立つ姿はなんか大人だった。チラッとこちらを見た気がするけど、たぶん気のせい。覚えてないか、どちらかというと思い出したくないはずだし。

 

ひと通り挨拶が終わり、彼女はブースに入る。もろもろチェックが進む。チェックチェック、テストテスト。彼女はあちら側で、私はこっち。クライアント側として、完成したナレーションのチェックと、そのまんまの意味で顔見せをする。しかもチェックは宮田さんが中心だし、顔見せに坂口さんは社長として来ていて、私はまるっとおまけ。隅に座って、ただただ見守ることが役割だった。だけど。

 

ドク……ドク……ドク……。

 

心臓が速い。飛び出してくるんじゃないかってくらい、鼓動がうるさい。憧れなのか、嫉妬なのか、かなしいのか。よくわかんない。来ないほうがよかったのかもしれない。向こう側の、「なりたかった私」の姿は、思い出のやわらかいところをズブズブと刺しまくる。

 

でも、大丈夫。それは、今、私の仕事じゃない。

 

私の仕事は、ここに来る前にほぼ終わっているんだ。あとは見守るだけ。

 

赤いランプが付く。映像とキューに合わせて、原稿が読まれていく。

 

 

圧巻だった。

 

「みずみーって、こんなだったっけ?すごいな」

 

思わず、宮田さんが立ち上がる。ガラス越しにも集中が見える。没入。声の密度、抑揚、音。息を吸うタイミングまで、こちらが伝えたいものが、いや原稿で書かれている世界を越えて、想像以上の言葉が流れていく。すごかった。

 

「……OKです」

 

私を含めた全員が息を忘れていて、思い出したように呼吸を再開する。息を呑むって、ほんとなんだな。その後、宮田さんしか気がつかない、ほんの少しのニュアンスのバリエーションと、言い回しの直しを念の為録って終わった。でも、おそらく最初のテイクがほぼ使われるだろう。

 

「お疲れ様でしたー」

 

その後、打ち上げというほどじゃないけど、軽食が出てそのまま軽い懇親会になった。坂口さんはクライアントだの旧友のスタジオマンだの挨拶回りになだれ込んでいった。瑞波は次の現場があるらしく、マネージャーさんとていねいにお詫びしてからすぐ帰ってしまい、話す機会がなかった。私も一通り挨拶をしたらやることがなくなってしまい、外の空気を吸いに自販機まで歩く。

 

[ゆり、かっこよくなったね]

 

スマホが震えた。瑞波だった。数年前、最後に[ごめんね]と送ったっきりの、既読されたメッセージの下に新しいメッセージですと表示される。数年を飛び越えて届いたみたいでふしぎだ。あのときと、さっきの姿が両方浮かんできて、なんて返そうか迷っていると、見透かしたようにまたメッセージがきた。

 

[これ、つくったのゆりだよね?][企画書見せてもらって名前見かけて、絶対そうだと思った!][だから、負けないようにしなきゃって思ったんだけど……。どうかな?よかった?]

 

[うん。よかった。すごかったよ。][おかげで今までで一番の仕事になると思う。][ありがとう。]

 

[うん。こちらこそ。][またね。]

 

[うん。また。]

 

スマホを握りしめて、気持ちが抑えきれずにブンブンと頷いて、しゃがみこんで少しだけ泣いた。

 

 

「はい、どうぞ」

 

避難してきた坂口さんに温かいほうじ茶を手渡すと「ありがとう。もう大変」とひらひら手を振りながら、応接用のソファに倒れるように座り込む。人気者は大変だ。横に座って、私もコーヒーに口をつけた。まだ十分温かい。

 

「坂口さん」「ん?」「私って、いま、なにか創れてますか?」「うん。……だって、それが僕たちの仕事だもん」「ですよね」

 

坂口さんはやさしく言って、ペットボトルのキャップをひねる。私ももう一口コーヒーを飲んで、先の言葉を飲み込む。また泣いちゃいそうだったから。「なりたかった私」にはなれなかった。でも、今、この人と。たしかになにかを創っている。一番の仕事だって、最高の出来だって、数年したら忘れられるのかもしれない。消費されて、誰の記憶にも残らないのかもしれない。それでも。

 

「さて。次、なにやりましょうか」「そうだなぁ」

 

つくるをつくる私たちは、なにかを創りたくて、作り続けるんだ。きっと。

 

いま、なにをつくってる?と繰り返しながら。

母がちょっとボケてきたらしい話。

母がちょっとボケてきた、らしい。

 

らしい、というのも一緒に住んでいないから、直接のところはわからないのである。

 

でも、兄姉から聞いたところによると、ちょっとボケてきたらしい。そういう症状があると、いう話らしい。

 

らしいらしいは、不安を呼ぶ。

 

よく親が仕事を引退したら、一気にボケたとか進行した話があるけど、いざ自分にふりかかると、なんだろう。

 

まったく、現実感がない。遠い。

 

母はもともとおっちょこちょいな感じあるし、心配性+忘れっぽいのダブルコンボ搭載型だから、遠方のわたしはそんなに気にしていなかった。

 

しかし、ゆるやかに訪れるようで、気がついたら一瞬なのかもしれない。近くにいる兄や姉は、感じとっているのかもしれない。

 

らしいかもしれない。想像は、不安を増幅する。

 

 

たしかに、今年は誕生日が2回あった。

 

息子くんの誕生日から一ヶ月経たずして、ふいにきたライン。

 

「誕生日おるおめでとうアル👞」

 

あれ、日にち違うよ!?よりも先に突っ込みどころ満載で、それどころじゃなかった。おるアル?なんで靴……??たしかにボケだったのかもしれないが、そっちのボケだったのか。

 

「ごめんね。こういう唐突なやつ、増えるかも。」

 

何も謝ることないけど、一緒に住んでいる兄から連絡をもらう。たのしかったから全然OKなんだけど、近くにいる人としては気が気でないのかもしれない。

 

 

地元の島までは飛行機で40分、東京-八王子間を電車で移動するくらいの時間で着いてしまう。

 

近い。いつでも帰れる。そんな距離。

 

そう思っていたのは一昨年までで、去年から一変、帰れなくなった。

小さなコミュニティは、まだ寛容にはなれない。

 

「なかなか、地域の目がねぇ。」

 

それでも、残酷に時は進む。

 

落ち着いたら、みんなでごはん食べようね。

そのうち、顔見に来てね。

抱っこしてもらうの、たのしみだね。

 

何回、その言葉を言っただろう。弟くんが生まれて半年、両親はまだ抱っこしていない。スマホの小さい画面で、泣いたり笑ったりする、デジタルな孫。いつの間にか新生児も終わって、乳児も過ぎて、もしかしたら会える頃には赤ちゃんじゃないかもしれない。

 

やっぱり、冷静に考えて異常事態だ。書いてたらちょっと泣きたくなってきた。

 

どんなに技術が進んでも、会わなければ触れない。抱き上げられない。

 

 

母方の家系は、ボケやすいそうだ。

母方の祖母、ばあちゃんもボケた。

 

子どもの頃、夏休みや年末年始の長いお休みになると、母方の実家に遊びにいった。

親戚の中ではうちが一番遠方で、その予定に合わせて近くに住むいとこたちが集まってくれた。

ばあちゃんは大きいテーブルの端っこに腰掛けて、優しく笑ってた。

 

 

父方の祖母が亡くなった時には、じいちゃんばあちゃんで島まで来てくれた。

離島に移り住んだ父母なので、少ない親戚のなか来てくれたのが嬉しかった。

 

「わたしは歌うのが好きでねぇ……、献歌だねぇ。」と、ちょっと涙ぐみながら好きな演歌を歌ってくれたのを覚えている。

 

思い出すばあちゃんは、笑ってるか怒ってるかだ。

 

リポビタンDにストロー差して「ちょっと飲むか?」喉にカァーッと喉にくるのをケラケラ笑ってたばあちゃん。

 

兄の大好物のうどんとこんにゃく作ってくれたばあちゃん。一緒に記事を踏むのがたのしかった。こんにゃく芋を触ろうとすると「痒くなるよ!」と怒るばあちゃん。

 

娘たち(私の母たち)の喧嘩の仲裁でなぜか孫まで巻き込んで激烈に怒ってたばあちゃん。怖かった。

 

ときどき自分の手をまじまじ見ながら、曲がらない関節を擦っていて、「何見てるの?」と聞くと何も言わずに笑ったばあちゃん。

 

わたしのなかの、思い出のばあちゃん。

 

 

 

抜けるような青空で、はじめて行ったリハビリ施設。やたら窓が広くて、車椅子に引かれてきたばあちゃん。ニコニコしてて、やせてて、うんうんうなづいて、わたしが誰だかわからなくて、忘れちゃったばあちゃん。

 

静かに、とても、かなしかった。

 

 

末っ子あるあるで、わたしは親戚付き合いが薄い。

 

大学を出てしばらくした頃、ばあちゃんの葬式で久しぶりに親戚に会ったら、なんとなく空気に居心地の悪さがあった。

 

勝手に、わたしが感じただけかもしれない。

 

たのしい思い出ばかり、話して送る。

それは、きっと難しいことなんだな。

 

まだ家族を持たないわたしは、無責任にそんなことを考えていた。

 

 

姉の運転する車で送ってもらったときに、ばあちゃんの話を聞く。

 

ばあちゃんの介護をどうするかという話を集まってしたとき。お義兄さんもたまたま一緒にいたそうだ。

 

ばあちゃんも、いつもの位置でテーブルにつく。

 

そして、なんかよくわからないけど私のせいでみんなが怒ってると感じて、逃げ出してしまったばあちゃん。

 

「俺、ちょっと見てきますよ。」

 

お義兄さんが見に行くと、ばあちゃんは泣いていたそうだ。

 

「ばあちゃん、泣かせるなんてなぁ。」

 

義理人情のお義兄さんだから、思うところがあったのだろう。それから、母方の親戚とは少し距離がある。むずかしい。

 

 

人はきっと、忘れられる悲しみに耐えきれない。

 

だから、近い人は、怒ってしまう。

だって、かなしいから。

かなしいは、怒りに変わる。

かなしいほど、怒りに変わってしまう。

 

だから、一つ決めたことがある。

 

たとえ今後、母がほんとにボケていって、変だったり、何度も同じこと話したり、うまくいかなくても、笑おう。たのしいことだと思おう。

 

きっと、近い人にはできない。

つらいし、かなしいし、現実的にしんどいから。

 

だから、遠くの私は、笑おうと思う。

無責任かもしれないし、怒られるかもしれない。

 

たしかに事実、距離がある分、責任も遠い。

 

でも。

 

だからこそ、たのしいエピソードを少しでも増やしたい。

その時が来たら、たのしいことをたくさん話して、笑いながら泣きたい。

 

 

そんなことを頭の片隅に置きながら、息子くんと母にテレビ電話を掛けたら、いつも通りの母がいた。全然元気やん!

息子くんは、爆笑しながらひたすらプラレールを紹介していく。

 

「いっぱい持ってるねー!」

「うん!」

「電車、とっても好きなんだね!」

「うん!!」

 

好きなものをユーチュバーみたいに紹介できて、息子くんはご満悦だ。

これは「ボケた?」と聞いたらめちゃくちゃ怒られるな。

手のひらサイズの父母は、さすがに頭に白いものが増えた。でも、お互い様かもしれない。白髪染めデビュー待ったなしのわたしがいる。

 

遠くから、ここからでは、いつも通りの母がいる。だから、わたしも笑う。

 

「落ち着いたら、島に遊びにきなねー!」

「うん!でんしゃのって、モノレールのって、ひこうきのって、いくね!」

「おお、よくわかるねぇ!」

 

 

 

うん。絶対、行くからね。

初めてLGBTを見たとき、ポケモンのことだと思った。

「女みてぇな声しやがって!!」

 

誰かのこころが踏みにじられて、止まってしまった瞬間を、その時初めて見た。

 

耳元で叫ばれた言葉の威力を、ぼくは今もわかっていない。

 

 

というより、たぶん、ぼくは気づいていない。

 

これは怒られるかもしれないけれど、と書くと語尾語頭ぜんぶに保険掛けたくなるので一度しか書かないけれど、

 

(これは怒られるかもしれないけれど)初めてLGBTの文字をみたとき、ぼくはポケモンの新作だと思った。

 

さっとウェブニュースの見出しだけみて、おおー!新作でるー!?あとで調べよう!と保存しておいたら、全然違った。リーフグリーンブラックサンダーじゃなかった。

 

LGBTは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーの頭文字をとったセクシャルマイノリティを表す言葉。

 

今はLGBTQ+になったりしてるけど、名前がつく前からきっとみんないたんだと思う。そしてこれからも、呼称や名前がどう変わっても、マイノリティによる差別や偏見がある限り言葉は存在する。

 

この言葉の意味や重みや歴史は、付け焼き刃でわたしが説明するより、わかりやすい記事がたくさんあるので調べてほしい。

 

ここで一番伝えたいのは、ぼくはそれに全然気づいていなかったということだ。

 

 

わたしはLGBTQ+の当事者じゃないし、誰かが無理解で傷ついたところに直面した覚えもなかった。そして、それが良いことなのか悪いことなのか、そもそも、そういうものさしで測れることなのかすら、よくわかっていない。

 

一説には、LGBTQ+のひとは佐藤姓や鈴木姓と同じくらいいるらしい。これまで生きてきて、佐藤さんや鈴木さんと出会わないことってあり得ないと思うので、割合だけで考えれば、どこかで出会っていると思う。知らないうちに。

 

 

大学のころ、サークルの知り合いで音楽の趣味が合うやつがいた。

 

ある時飲みながら、くだらないことを話すだけ話して、話し尽くした終わりに、そいつがふとつぶやいた。

 

「俺、男も好きなんだよね。」

 

そのときのぼくといったら、冷えてカチカチになったなんこつ唐揚げを箸で弄びながら「ふーん、そっかそっか。そうなんだね」と思った。と同時に思ったのをそのまま口に出していた。

 

「ふーん、そっかそっか。そうなんだね。」

 

それで何かが変わるような気はしなかったし、ほんとにそう思ったから口に出たんだけど、そのまま何故かプッと吹き出して、またくだらない話に戻った。(くだらない話の内容はまったく覚えていない)

 

それから卒業間近になって、また何人かで飲んでるときに、

 

「お前はなんか、なんでもそういうのもあるよねって言うから、救われたような、ちょっと悔しいようなそんな気がしたんだよな」と言われた。

 

もしかしたら、気がついていないうちに傷つけるような言葉を使っていたのかもしれない。

わからないし、全然覚えていない。

 

 

「女みてぇな声しやがって!!」

 

大学を卒業してから、しばらくコールセンターで働いていた。

 

その頃ぼくは、オペレータさん(お客さんの電話を対応する人)を管理するリーダー業務をしていて、一部のクレームに対しては対応を交代することもあった。

 

その電話を受けたのは、めちゃくちゃ優秀なオペレータさんで、声質や調子から機微を察知して、スムーズに会話できる頭の回転モンスターの超人みたいなひとだった。

 

ぶっちゃけぼくなんかが交代するよりスキルも高くて、どうしようかなと迷って、

 

ふとそのひとを見ると、口をポカンと開けて止まっている。

 

ほんと、一時停止した動画みたいに止まっていた。

 

 

 

 

その人は、体は男性で心は女性。

 

言われて気がつくくらいだったので、伝えられたときもやっぱりわたしは「そっかそっか。」と思っただけだった。人柄も素晴らしくて、部署内で信頼されているメンバーさん。

 

その人が、マンガみたいに言葉が出なくて、ただただ口をパクパクさせている。

 

見かねた別のリーダーの男前さん(この人については別の機会で書きたいくらいの男前さん)が、ひゅっと飛んできて、電話を保留にする。

事情を聞くと「オーケーオーケー任せて」とヘッドセットを受け取った。

 

んで、電話にでる直前に一言、

「俺、今めちゃくちゃ怒ってるけど、今は仕事するからね。ごめんな。」と言った。

 

男前さんはその後電話に出ると、謝りに謝りに謝り倒した挙げ句に、最後にはしっかりと収めて、終わりに「ありがとな」までもらって電話を終えた。でも、オペレータさんの声については一言も謝らなかった。すごい。

 

ぼくは未だに何がごめんなのか、ちゃんとわかってない。

 

 

 

 

ちなみにオペレータさんはその後、ご結婚されて退職していった。思い出すと笑顔しか覚えていない。めちゃくちゃ幸せそうだった。だから、これでよかったんだと思う。

 

 

そう、たぶん、ぼくは気がついていないだけだ。

 

明確な悪意や目的を帯びた言葉なら、わかる。

でも、小さな声には気がつかないかもしれない。わからないかもしれない。自分が傷つける側になるかもしれない。

 

何かを変えたり、大きなことをしたり、影響力があったり。それはすごいことだし、そういう発信を通じて私達は考える機会をもらう。

 

でも、みんなが国連でスピーチして、いろんな人に訴えて、世の中を変えられるわけじゃない。

 

変えられり、変わったり、良くなったり。変化していく世の中のなかで、ちょっとずつ違いを飲み込んで、飲み込めないところは「ごめんな」って添えてるひとがいる。

 

そういうひとのことも、すげえなぁって思う。

 

 

 

 

当事者にはなれなくても、対峙したときに。

何かを変えられなくても、その接点をやさしさでつなごうとすることはできる。はず。

 

人類の叡智を巡ってガンダムで殴り合ってるやつより、たまたま居合わせたときにやったろうって言えるザクのほうがヒーローだと思うし、ザクが社会をつくる。たぶん。

 

 

「この言葉は誰かを傷つけるかもしれない。」

 

そういう想像力と「そっかそっか」と受け止められるほんのちょっとの心の余裕をいつも持っていたい。

 

そんで、いざ誰かが傷ついたり、傷つくような言葉に直面したり、自分が当事者になったときに、すぐに何かを変えられなかったとしても。

 

「ぼくは、めちゃくちゃ怒ってる。ごめんな。」

 

そう言えるように、なりたいなと、ずっと思い続けている。今日も。