ショートショート「夜を返す」

いくら飲んでも酔えない。でもアルコールは回る。そんな人生の2時間をドブに捨てた帰り道。

 

セキュリティと家賃を天秤に掛けた結果、都心から電車で1時間、駅から歩いて20分。無駄に重だるい体を引きずりながらオートロックをくぐり抜ける。エレベーターが点検中。朝出たまんま、変わらずに止まっている。なんでだよ。はぁ。さらに気分も重くなり、5階まで階段を上がる。右足。左足。右足。左足。暑い。耐えきれなくなってワイヤレスイヤホンを外してビニール袋に投げ込む。どっかの誰かの歌声がひどく小さくなって、でも鳴っている。虫の声もする。リーンリーン、ジージー。息を吸い込むと、鼻の奥に川の匂いがした。名前も知らない川の横にあるマンションに越してきて3年。毎日こんなに長いのに、なぜかもう3年だ。はぁ。呼吸を整えると、少しだけ体の火照りがコンクリートに溶けていく。ガサガサ。……これなんだっけ?そうだ、コンビニに寄ったんだった。水と、なんかアルコールに効きそうなビンのやつと、ホイップが載ったプリン。スプーンはつけますか?いらないです。コンビニからしばらくは天使の心でやさしく、地球にやさしく、ていねいに揺らさないようにしていたのに。もう中も見たくない。いらない。ぐるぐるぐるぐる。ぜんぶぐちゃぐちゃだ。

 

 

スマホをかざしてドアを開ける。倒れ込みたい誘惑を振り切って、乱雑にパンプスを脱ぎ捨てる。ドサッと玄関にビニール袋を落とす。もうやさしさの欠片もない。イヤホンの音はいつの間にかなくなっていた。壁伝いにキッキンまで行き、流しに置きっぱなしのグラスとおんなじグラスを棚から取り出す。おそろいのグラス、だったもの。今はただのおんなじ2個のグラス。乱暴に蛇口を引き上げ、水を入れる。ジャー。派手にこぼれたが、どうでもいい。早押しクイズみたいに手を振り下ろし水を止める。グラスに半分は残った水を一気に飲み干して、やっと少し落ち着いてきた。今度はゆっくり蛇口を引き上げる。ツー、トトトトと少しずつグラスに水が満ちていく。もう少しでいっぱい……となる直前、ピンポーンとまた手を振り下ろして水を止めた。

 

リィーン。

 

なんの音だろう。遠くに響くような金属の音。きれい。蛇口を引き上げる。ジャー。止める。ポタ。グラスの水を捨てる。パシャ。ジャー。パシャ。耳を澄ましてもさっきの音はしない。ジャー……。水がグラスから溢れて手を滴り落ちる。今度はさっきみたいに勢いよく水を止める。

 

リィーン。

 

ジャー。ヒュッ。リィーン。パシャ。ジャー。ヒュッ。リィーン。水道管に響いて鳴るのだろうか。パシャ。ジャー。ヒュッ。リィーン。どこまでも響くような、きれいな音。こんな音が鳴っていたんだ。知らなかった。イヤホンもつけてない。テレビも消えている。スマホは充電切れ。ぜんぶオフにしたら、夜は音を返す。

 

 

南向き、ベランダのでかい窓を開けると音がたくさんあった。ザー。川の音。リンリン、ジージー。虫の音。遠くの電車音。コトッとコンクリートにグラスを置くと、おんなじ形に滲んで濃くなる。充電切れのスマホの電源を入れてみたら、ハローとだけ出てまた消えた。片手に収まるただの板のくせに。なんでも出来るドラえもんに思えるときもあれば、結局ただの枷にしかなってない気もする。帰り道、つい見ちゃうSNSやらなんなら。いらない、でも気になる情報の海。過去ってなんで元気の元ってつくんだ?どう考えても元気じゃない。もと、なんて後ろ向き以外で使わないのに。でも「げんき」とか「ゲンキ」なんて書くと、一気に嘘っぽい。元気って、よくよく考えたら前向きハツラツなんて漢字じゃない。完全、ただの元の気分でしょ。一周回ってゼロじゃん。素がまともで、ゼロで息出来る陽キャな奴らだけに成り立つやつじゃん。

 

上司のマイホームも、後輩のキャリアも、パートナー、いや元か。元パートナーのあれこれも、大して興味ないくせに聞くフリも聞かれるフリも、ぜんぶがぜんぶどうでもいい。でも、一番嫌いなのはどうでもいいのにどうでもいいって言えないこと。なんとなく笑ってたら流れていく時間が一番楽ちんで、選ばないをずっと選んでて、やりたいも好きも嫌いも大好きも知らんがなもわかるよもわからないも言えなくて、えへへどっちつかずで笑うときの口角の作り方だけ天才的に覚えてて、覚えちゃって、忘れられないこと。

 

「ねぇ、話聞いてる?なんかさ、ここにいるのにいないみたいだよね。いっつも」

 

知るかよ。聞いてるよ。聞いてるんだよ。でも、その速度で生きられないんだよ。えへへ。口角。この角度。泣きたい。聞いてたんだよ。ちゃんと。でも、言えなかったんだよ。言えるようになったら、もういないんだよ。なんか叫びたくなってきた。いいかな。ダメだろうな。絶対ダメ。東京はこんなにうるさい街なのに、いつだってどこだって叫んじゃいけないだよ。でも、ダメと言われるとやりたくなるんだよね。変なの。どっちが?わたしが……知らんけど。思いきり息を吸い込む。アルコールの残り香と明日1日分くらいの決意めいたものが肺に充電されていく。どうせわたしは明日もおんなじように笑うだろう。2つのグラスをまるでもともと1つずつだったように使うさ、玄関のプリンをほんのちょっと申し訳ない気持ちで捨てるだろう。嫌いな自分から目を背けて、それでもときどきこんな夜を過ごして、やり過ごしていくんだろう。たぶん。

 

「……ばっっっかやろーー!!!」

 

あの、ほら?遠くに見える小さな点。その光の中、マンションの最上階の角部屋にわたしとおんなじような子がいてさ、ベランダでたまたま一緒に叫んで、その声はぶつかって相殺されて、夜に消えてしまう。わたしの声は、わたしの中にいる「どこかのわたし」が、勝手になかったものにしてしまう。叫んでも、叫んでも、声になる前に打ち消されて、「ああ」とか「はい」とか、絞り出されたカスみたいなうめきだけが口から出てくる。口角を上げて笑う。でも、精いっぱい空気を揺らして、不安なくらいほんの少しの波。そのほんの少しが必要なんだ。ときどき。思いきり叫んだぶん、冷たい空気が肺に返ってきた。

 

「うるせぇ!何時だと思ってんだ!寝ろ!!!」

「はーーーい!」

 

夜はわたしに声を返す。返してくれる。音が鳴っている。返ってくる。誰だか知らないあのおっさんに明日いいことありますように。